2009年05月26日

レッドブルコーラに含まれるコカインは無害という判定も

レッドブルコーラに微量のコカインが見つかった後に
ドイツ連邦危険査定所は これを検査し、危険でないと
判断した。コカインの濃度が低すぎ、作用を及ぼすには
至らないと言う見方である。
しかし その後の このコーラはドイツの多くの州で
販売を禁止されている。
ノルトライン-ヴェストファレン州の保健・労働研究所は この
コーラ1缶に0.13マイクログラムのコカインを検出した。しかし 
中枢神経と心臓・循環系に作用を及ぼすには この
7000倍の濃度が必要である。
下記サイトから:
http://www.stern.de/gesundheit/ernaehrung/aktuelles/:Kokainspuren-Red-Bull-Cola-Bundesinstitut-Gefahr/701779.html
  


Posted by jtw at 17:49Comments(0)

2009年05月26日

ロマ(ジプシー)居住区訪問byドイツ学生(昨日の続き)

◎ハンガリー・チーム
南ハンガリーの大学生寮に泊まった。ノルウエーの学生が
そこに4年住んでいる。街路一つ向こうにロマが住んでいるが 
彼はロマとかかわりは なかった。
彼に通訳してもらった。
居住区に約20の小さい部屋がある。通りでAttila(42歳)
と出合った。やせた体と灰色の髪のせいで 年齢よりも
老けて見える。昼下がりなのに 彼は酒の匂いがした。
地区のセンターへ案内してくれた。5年前までは電気も
水道もなかった。その頃に週末には ここでジプシー・ディスコ
があった。EUの金でセンターは改装され、今3家族が
住んでいる。
彼は30年前から この町に住んでいる。学校は中退した。
病気で働けないから 国から月に100ユーロもらっている。
これでは 生きていけないので 近所の人が助けてくれる。
妻は去った。青少年局が13歳の娘を引き取った。
ロマの言葉を話せるか彼に尋ねた。ロマはインドから欧州へ
移動してきたので その言葉は インドの言語と親戚に
違いない。ドイツの学生の一人が ヒンズー語で自己紹介
すると 彼は喜んだ。しかし彼の母語はハンガリー語なので 
ロマ語は 少ししか知らない。
彼は 廃線になった駅の信号小屋に住んでいる。
別れるときに彼は涙を浮かべた。写真を送る約束をした。

◎チェコ・チーム
Josepha(37歳)はピルゼンの中心部にあるロマの家に
住んでいる。チェコには30万人のロマがいる。チェコで最多の
少数民族だ。どの町にもロマはいる。どこでも 同じ偏見が
聞かれる:ロマは社会に寄生する者であって、年金生活者
よりも多くの金を国から受け取り、教育を受けていない。
盗みをする。
Josephaは こういう非難を承知していて、その幾つか
には同意さえする。
いくつもの部屋をノックして やっとドアの開けてくれたのが 
彼女だった。「この娼館については ここに住むジプシーに
責任がある」と彼女は罵った。彼女が娼館というのは 
混乱状態のことを意味している。彼女はドイツ語を話す。
娼館というドイツ語も 学校の頃に習ったのだ。
夫と息子と 兄の息子と一緒に住んでいる。兄は刑務所
にいる。彼女の住まいは きちんとしている。他の住人は
汚くするし、働かないし、と他人を罵る。夫は塗装工をして
いて、彼女は 今 無職。また美容師をして働きたい。
彼女は 子どもたちを学校へ行かせるんのが 大事だと
思っている。子どもは まともな職業に就けるように勉強してほしい。
「すべてのジプシーが私のように考えたら問題は無くなり、
ロマを居住区に入れようということなど 話題にならなく
なるだろう」と彼女は言う。チェコの右派政党はロマ居住区を
設定しようと要求しているのだ。
彼女は差別に腹が立つけれど、他のジプシーに満足して
いない。「一ヶ月したら 引っ越す。今度のアパートはジプシー
だけでなく、普通の人もいるアパート」と言うて 彼女は 
にっこり笑った。「子どもには いつも言うてきかせて
いる。アメリカでは 黒人が弁護士や医者にも なれるんだと」。
下記サイトから:
http://www.spiegel.de/unispiegel/studium/0,1518,625977,00.html

  


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2009年05月26日

鶴澤寛治さん・四世津大夫を語る

朝日新聞 2009年5月25日夕刊
「立ち見席・文楽劇場 四半世紀」(3)
見出し: 兄貴の愛で よみがえった。
文・西本ゆか、写真・伊ケ崎忍。

以下 抜粋です:

四世津大夫さんは 文楽劇場 こけら落としの千本桜で
「渡海屋・大物浦の段」を語った。当代寛治さんの父・
先代寛治さんが 長年 相三味線だった津大夫さんは 
寛治さんの実姉の夫でもあった。
「大夫としての 功績は言うまでもない。でも今、立派な
劇場で 芸に専念できる我々は、戦中戦後の激動の時代、
文楽を守るために彼が捧げた献身を、忘れちゃいかん
と思うのです」

寛治さんが16歳だった45年春、大阪が空襲で焼け野原
になった。四つ橋文楽座も焼けた。
一回り年長の津大夫さんは 即座に動いた。当時 
文楽を経営していた松竹系映画館での上演をめざして 
奔走した。映画館も焼け、幻に終わったが、努力は無駄に
ならず、悲願の公演は終戦 直前、朝日会館で実現した。
生活のために 氷屋をしながら 戦争で散り散りになった
仲間に もう一度 文楽をと 声をかけて回った。
復興後も「巡業の興行主になって もらえないか」と各地の
新聞社を回り、国立の文楽劇場実現を願い東京に
幾度も陳情の足を運んだ。
「汽車賃のため質屋通いも辞さなかった。そして
功績を誇らなかった」
「兄貴が捧げた無償の愛が礎となり、今も劇場を
見守ってくれている気がします」

★ブログ管理人の蛇足:
本当は 勝手に 抜粋するのは 著作権法違反だと
思うけれど、津大夫さん 全盛の頃に 合邦、山科閑居、
尼ケ崎などを 聞かせていただいて 感謝の念 尽きない
ですので 追善供養のため 見逃していただきたく 
カキコミいたしました。  


Posted by jtw at 07:26Comments(0)