2011年05月31日

チェルノブイリ惨事の処理をした人々

下記サイトに事故処理をした人々12人の写真と説明
(その多くは癌などに苦しんでいる。説明は 無料の
自動翻訳ソフトを使って読んでみてください。自動翻訳は 
たいてい 分からないですが ないより まし):
http://einestages.spiegel.de/static/topicalbumbackground/22587/verwuestete_leben.html

下記は記事・本文の抜粋:

写真集「失われた地域~壊された伝記」(写真家 Ruediger
Lubrichtによる) は 忘れられた英雄たちを 正当に
評価し、彼らの劇的な歴史を示す。

Nikolai Kanzawenka(写真1の人)は 白ロシアのGomel地方の
営林署員だった。彼がチェルノブイリ事故のことを 知った
のは 事故のあと何日も経ってからだった。釣りに行ったら 
湖は 緑色だった。牛乳も緑色だった。

Klaudia Waranez は 1986年4月28日に 子どもを連れて
小学校の競技大会に行った。大会に来た子の 多くが 
鼻血をだしたり 失神したりした。暑さのせいだと 
皆は思った。原発の事故について 帰路にバスの中で知った。

事故についての 短い報知があったのは 事故の4日後
だった。それまでは 子どもは幼稚園で遊び、生徒は
学校へ行っていた。
報知も「事故はあったが コントロールされていて、
恐れることはない」というものだった。

チェルノブイリ事故は 技術が機能しなくなった歴史で
あり、原発は管理できるという幻想が終わったという
歴史だ。
チェルノブイリは 否認・とりつくろい・たいしたことは
ないように扱うこと・の物語である。
国家は 市民の悲しみよりは 他のことを優先した。
数千人は 避難するのが 遅すぎた。
数十万人が 死の地域に 支援に送りこまれた。彼らは 
瓦礫を除去し、ヘリコプターを操縦し、無人になった家を
掃除した。大半の人々は 充分な防護もなしに 働いた。

写真1のNikolaiは 今、70歳になった。営林署で働いて
いたので 森で放射線を測定し、木を植えなければならな
かった。植林した木は 放射線を吸収した。彼の子息は
28歳の若さで 癌で死んだ。子息の 埋葬のために 
森の近くを通ったとき、植林した木々は 美しい森に
なっていた。

彼のような事故処理者は 高い代償を払った。多くは 
今、障碍をもったり、働けなかったり、癌を患ったり、
奇形の子を持ったりしている。
大惨事と荒廃した風景を 結びつけて 人は考えるが、
事故処理にあたった人々の荒廃した人生については 
考えない。

Mykola Bosjiは今、70歳に近い。353人の民間人からなる
部隊を率いて 原発の消火にあたった。隊員の逃亡を 
防ぐために 民間人に軍服を着せ、彼らについて 
戦争法規を宣言した。1日の労動時間は 16時間に及んだ。
「兵士 一人ひとりが 小さい原子炉のように 放射線を 
だしていた」。ロボットは 極度に高い放射線のために 
動かなかった。作業員は「生きているロボット」と呼ばれた。
地獄の仕事だった。

1986年から今までに チェルノブイリ市内とその周辺に 
80万人が投入された。1991年にソ連が 分裂し、彼らは 
ウクライナ、白ロシア、ロシアで 事故後の闘いに 
入った。年金と住居と敬意の 問題だった。作業員だった
ということの 公的認知も しばしば 問題になった。
作業員証明書を もっている人だけに 医療が保証された 
からである。

上述のNikolaiは ミンスクに約束された住居を待って
いたが ただ 待っただけに終わった。息子たちは 
Gomelに留まった。一人の息子は 癌で死に、妻と娘が 
残された。みんな 病気だった。二人の孫娘は ドイツに
治療に来て、その母親は 後を追って ドイツに渡り、
ホームステイ先のあるじと 愛しあうようになり 結婚した。
「今 かれらは ドイツのハノーファで 幸せに 
暮らしている」。
Nikolaiは 1987年から 癌と闘っている。★



  


Posted by jtw at 18:55Comments(0)

2011年05月21日

地獄・チェルノブイリの写真集

下記サイトに写真8枚:
http://www.sueddeutsche.de/panorama/fotograf-igor-kostin-in-der-hoelle-1.1074333

2006年に写真集「チェルノブイリ接写」として出版
された写真、カメラマン Ignor Kostinの写真を中心に。

写真1. 事故処理作業の準備。原発の屋根の上で 
作業した人々のほとんど全員は 35歳から40歳代の 
予備役軍人だった。
鉛板いりの防護服は あまりにも多くの放射線を 
吸収したため 2~3回しか 使えなかった。
2. 幽霊町の観覧車。チェルノブイリの隣の町 
Pripyatには5万人弱の人が住んでいた。原発労働者の
ための町だった。その後、特にプルトニウムの汚染の
ため、人は住めない。プルトニウムの半減期は
24000年であり、24000年後にも 今の半分の
放射線をだす。
3. コスティンの写真のうち、これだけがカラーで 
他は白黒。この写真は 高い放射線のために 
粒子が荒くなっている。
4. 先天的欠陥が 動物と人に 多く現れたので 
ソ連政府は Schytomyr周辺の田舎の人々に 移住
するよう提案した。しかし この女性は 家に留まった。
5. 先天的障碍をもつ子ども。コスティンは1988年に 
白ロシアで この子に会った。ドイツのStern誌に載った 
この子の写真を見た 英国の夫婦が この子を養子と
して迎え入れ、手術し 治療を受けられるようにした。
6. この人は 古里を離れない。兵士が 村を無人
地区にするために 村に着いた時、彼は ウクライナ
の旗を掲げ、自宅の壁に 白墨で書いた:「同士で
ある 兵士たちへ! この家を壊さないように。
住んでいる人がいる」。
7. 特に 子どもは 凄まじい放射線を受けた場合に 
悪い障碍に苦しむ。
8. この撮影のために コスティンも被爆したが 
今も生き延びている。

★ブログ管理人の蛇足:
日本のメディアは 規制して、チェルノブイリ事故の
写真を 出さないように しているのかも 知れない。   


Posted by jtw at 16:01Comments(0)

2011年05月19日

白ロシア・原発事故のトラウマがあるのに原発建設計画

2011年4月1日発:
白ロシアの北西部、リトアニアとの国境から20キロの 
Astrawezに 同国で最初の原発建設計画が進んでいる。
白ロシアは25年前にチェルノブイリ事故の被害を受けた。
工事するのは ロシアのコンツェルンRosatom社の予定。
福島での事故の後で 白ロシアの大統領とロシアの首相
プーチンが この建設の契約にサインした。
彼らによると、この原発は福島の原発より はるかに
安全である。
2017年に営業を始める。

白ロシアでは 選挙はまやかしであり、大統領候補者は
拘禁され、報道機関は操作されているので 原発に
ついても 何が真実か分からない。

25年前のトラウマは今も忘れられないし、福島の写真は 
トラウマを長引かせる。
日本の東電が 途方に暮れていて、不十分な情報を
流して 批判されているのに、独裁的な白ロシアの
役所を 信用できるだろうか?

この建設費はロシアからの借金であり、発電した電力は 
外国に売りたいという意向だ。

Walentin Nikitenkoは チェルノブイリの近くで被爆し、
家も学校も汚染されて 避難し、後に夫を放射能の
ために亡くし、自身も手術を6回 うけた。

白ロシアでは組織的な反対運動も デモも無い。
環境保護団体 Oekodom のTatjana Nowikowaによると 
人々は怯えているのだ。
下記サイトから:
http://www.sueddeutsche.de/politik/tschernobyl-und-weissrussland-atomreaktor-fuer-ein-traumatisiertes-land-1.1086349
  


Posted by jtw at 13:29Comments(0)

2011年05月15日

庭に来る鳥の調査inドイツ

ドイツ自然保護連盟(Nabu)は 5月13日から15日までの
間に「庭に来る鳥の時間」として 60分間に 
見た鳥を数える調査をする。

この時期に 朝4時には アムゼル(黒うた鳥)は
鳴き始め、アオゲラや雀も 鳴いている。
下記サイトから:
http://www.faz.net/s/Rub80665A3C1FA14FB9967DBF46652868E9/Doc~EF0B9A2CB8C96444E8CD05E81FBBC231F~ATpl~Ecommon~Scontent.html

Nabuの 下記サイトに この調査について:
www.nabu.de

  


Posted by jtw at 21:20Comments(0)

2011年05月12日

チェルノブイリ事故の2日前にドイツで出産した母親の話し

Fiona Weber-Steinhaus は25歳。
母 Lesley(54歳)とFionaは スコットランド人で、
1982年にFionaの父と共にブレーメンに来た。
事故の情報が増えるにつれて、みんな不安になった。
特にミルクについてパニックになる母親もあった。
豆乳を赤ちゃんに飲ませようとする母親もあった。
入院中に医長は 放射性物質についてスピーチをして
くれた。入院中の女性の要望に応えて 病院は 
長期保存牛乳を入手した。

母Lesleyは ドイツに来たばかりで、あまりドイツ語が
できなかったし、古里 英国では 原発について 
あまり論じられていなかったので Lesleyは 原子力に
ついて ほとんと知らなかった。
英国では 今も ドイツと比べて、反原発運動は 
活発でない。
Fionaを産んで 退院した後で ブレーメンで
反原発のデモに参加した。
子どもに やる食べ物については 注意を払った。
キノコや野生の獣は 食べさせなかった。小児科医に
豆乳について 電話したら 彼は 大豆は 殺虫剤まみれ
だから 赤ちゃんに 良くないと 言われた。それで 
長期保存牛乳を 買っていた。

4歳上の長女と 比べて、Fionaの育った時代は 
環境について敏感だった。フィオーナのパーティで 
フライドポテトとソーセージを出したら、客の一人は
「自然食品でないし、健康に良くない」と文句を言った。
しかし フライドポテトの皿は すぐに 空になった。

悲しいことだが、人の行動を変えるために 時には 
福島のような大惨事が 人には 必要だ。
歴史から 学ぶということを 考えないといけない。
下記サイトから:
http://jetzt.sueddeutsche.de/texte/anzeigen/522344  


Posted by jtw at 18:17Comments(0)

2011年05月08日

性転換者Dana が欧州歌謡曲コンテストに

Eurovisionコンテストに ダーナが出場した。
Dana International は男性から 女性になった人で、
1998年に イスラエルの代表として
このコンテストで1位になった。
下記サイトに動画:
http://www.welt.de/videos/panorama/article13358732/Transsexuelle-Lena-Rivalin-ist-Wiederholungstaeterin.html#  


Posted by jtw at 10:16Comments(0)

2011年05月05日

チェルノブイリの近くのゴーストタウン・写真

人は逃げ、森が戻った。
下記サイトに写真11枚:
http://www.stern.de/panorama/stadt-bei-tschernobyl-der-mensch-fluechtet-der-wald-kommt-1675062-1a2efcc32631337a.html

写真1. 1986年4月26日の大惨事を忘れないための記念碑
2. 事故の1日半あとに Pripjat市から 人々は退去した。
これは 病院。
3. この町に ほぼ5万人が住んでいた。大半は 原発の
従業員とその家族だった。避難する時、不要の物は
置いていった。
4. ホテルの階段室。今も放射能 汚染は ひどい。
5. 事故後、25年たっても 廃墟に入って 略奪して
いく人がいる。残っているのは アルバムと玩具。
7. 観覧車と 壊れた原子炉は この最大の原子炉 
惨事のシンボルになった。
8. 元 事務所。Pripjatの放射線量は 場所により 
ずいぶん異なる。自然の放射能の3倍しか ない区域も 
あれば、わずか数百メーター離れた場所で 20倍の
放射能が あったりする。長期に渡って 留まる
ことは 勧められない。
9. Pripjat での滞在は 厳しく規制されている。この
監視所(入り口)から 入るのに、特別許可証が要る。
10. 住居からも 屋根からも 木が 生えてくる。
11. 写真10と 同じ街角。1982年5月に撮影された。 
この町は 特に 若い技術者に 人気があった。
集合住宅は 近代的で、給料も良かった。
  


Posted by jtw at 15:54Comments(0)

2011年05月03日

ドイツの一般医によるチェルノブイリ被害者診察・20年

一般医/心理療法士であるDoerte Siedentopf(ドイツ、
Dietenbach在住、69歳)は 20年間、白ロシアに通い 
被害者を診察している。チェルノブイリ事故から 
25年たっても、放射能による被害は増えている。
チェルノブイリから約180キロ離れた 白ロシアの姉妹村
Kostjukowitischiの1/3が 放射能の被害をうけた。当時の
人口35000人のうち 8000年は 移住しなければ 
ならなかった。

他の大催事に比べて 放射能の被害は 時を経ても増える。

Siedentopf医師は 被害者に医療を提供する協会を
つくっている。
800人以上の子どもと その世話人が 1991年から 
休養のためにドイツに来た。彼女は「核戦争に反対する医師」
の国際的協会の会員だ。

ストロンチウムとセシウムの半減期は30年であり、
その年数の十倍300年の間、それらは 生物循環の中に
留まる。つまり 8~10代の世代の間、放射能による
病気の増加を 考慮に入れなければ ならない。

白ロシアの沼地や砂地に落ちた 放射能は 地下水に
達した。地下水は 地表から深いところには ない。
放射能は 1年に地表から2センチ入っていく。25年で 
50センチ 入ったことになる。
放射能は 水を経て、植物と動物に入る。
砂の耕地では 放射能は ガイガーカウンターで測定
できない程度である。しかし 森の中では 木の葉や
苔が 妨げとなり、放射能は土中に入って行きにいので
放射能は表層に留まる。木の葉の多い多い場所や 
雨水の集まる窪地ではガイガーカウンターは 反応する。

最初の10年間の支援では 目薬や 耳にいれる薬や 
座薬のもとになる 基礎物質を白ロシアへ もって
いった。10年前から それは許されなくなった。
白ロシア政府が 医薬品の配給を管理するようになった。
政府が どの薬を許可するかは 薬の会社が支払う許可金、
次第である。白ロシア政府が許可した インシュリンは 
2種類しかないが、子どもには 別のインシュリンが必要だ。
チェルノブイリ事故 以来、子どもの糖尿病は 
増えている。中央管理は こういう弊害をもたらす。

セシウムは 食物連鎖の中にはいり、妊婦の腸に到達する。
胎児の膵臓の発達は そのために 妨げられる。膵臓は 
インシュリンをつくり、人間の器官の中で もっとも
感受性の高い器官の一つである。

免疫システムは 損傷を補修するが、子どもは 3歳まで 
免疫システムを持たない。そのうえ 子どもは 大人と
違い、細胞分裂の率が速い。放射能は 細胞分裂の起きる
時に 妨げになる。したがって 放射能に ごく僅か
被爆しても 発達は 妨げられる。

チェルノブイリ以後の 最初の世代において 夫婦の
30%は 子どもが 欲しくても 子どもを もてない。
ドイツでは この率は10%である。遺伝素質の 損傷に
より、流産や 死に至る早産が 増えている。

白ロシアでは 2010年に 癌による死者は ほとんど
ない ことにされている。
白ロシアやウクライナの ような 独裁国家において
 統計は信用できない。他の原因による 病気が多い
ことに すれば 保健制度の維持費が 少なくて済む。
原発推進派の会社と 独裁者は 馴れ合い である。

★★ 福島では 終結が 予測されていないし、毒性の
高いプルトニウムが 問題であるから チェルノブイリ
事故よりも 福島は はるかに危険だと思う。
福島では どれほどの量の放射能が 海にでて、どこへ 
流れていったのか について まったく分かっていない。
また 白ロシアと違い、福島の人口密度は 比べ物に
ならない程、高い。そして 山が 雲の拡散を妨げて
いるので 放射能は 細長い海岸地域に 留まる。
原発の損傷を 9ヶ月で修復する計画だと言うのは
馬鹿げている。内容のない空疎な言葉だ。
下記サイトから: 
http://www.tagesschau.de/ausland/tschernobyl134.html
 


  


Posted by jtw at 18:55Comments(0)