2012年12月30日

映画「ズールの鮨」永井潤子

月刊「未来」2013年1月号 p.10~11.から抜粋:
(原文は買って読んでください、105円)
ドイツ、テューリングン州 山々に囲まれて、人ロ三~四万の
ズールの町はある。旧東ドイツ時代、この町にその名も
ヴアッフェンシュミート(武器製造工)というレストランがあった。
このレストランのコックが1960年代の半ば以降、ここに
日本料理部門をつくろうと奮闘し、のちには東ドイツ唯一の
日本食レストランとして人気を集めるようになった。
カルステン・フィーベラー監督の映画「ズールの鮨」は、
こうした実話を基につくられた喜劇仕立ての映画である。
伝説的なコックの名前はロルフ・アンシュッツ。もともと両親が
経営していたレストランは、社会主義政権に没収された。
彼は「外国に自由に行かれないなら世界を自分のとこ
ろへ呼び寄せる」と独自の行動を開始する。あこがれの日本、
まだ見ぬ「日出ずる国」の料理と文化が最大の関心事となる。
 アンシュッツ氏は、「世界料理」というドイツ語の本を唯一の
手本に、日本料理らしきものを作り始める。西ドイツでも日本人の
多いデュッセルドルフ以外、日本食レストランなどなかった時代
のことである。最初は日木食に必要な材料もお醤油などの
調味料も手に入らなかった。近くの池で父親が釣った鯉が
お刺身になった。空いていた部屋を工夫して彼が夢想する
”日本風”に飾り立て、手に入る安っぽい洋服の生地で着物
らしきものを作り、従業員の一人を芸者に仕立てて、異国
情緒を盛り上げた。
ある日、地元の新聞が写真入りでこの日本食レストランについて
報道したのを読んだ一人の日本人がやってきた。
映画上のこの日本人は林博士、近くの大学の客員教授
として滞在しているという設定だ。この林博士から本当の
日本料理の作り方を教わり、代わりにドイツ料理を教えるなど
して二人のあいだに友情が芽生え、やがて日本から食材が届き、
ライプチヒ国際見本市に参加する日本人ピジネスマンや日本
政府代表団が訪れるようになる。
日本に招かれたアンシュッツ氏が東京を訪れると、現代の日本は
彼が想像していたのとはまったく違ってせわしない世界だった。
あまりの慌ただしさに疲労困堤して倒れる。
そしてふるさとズールの自分の「日本」に帰りたいと切に
願うところで映画は終わる。
 
林博士役の日本人、瀬戸元氏も注目された。ウィーン在住の
瀬戸氏は、歌手として活躍したのち欧米の映画に数多く出演している。

 実は生前のロルフ・アンシュッツ氏に二度会ったことがある。
最初は1970年代の終わり頃だったと思うが、アンシュッツ氏は
突然訪ねた私たちを日本食レストラン部門に案内し、「ここを
訪れるお客は日本人がするようにまずお風呂に入り、日本料理
についての説明を聞いたあと食事をすることになります。全員
お箸を使ってもらいます」などと説明してくれた。そのときは
個別にお風呂に入るのだと思ったが、映画を見てびっくり
仰天した。お客全員が男も女も一緒にお風呂に入っていたから。
実際にもそうだったようだ。
 二回目は、統一後の1990年代のはじめ、スキー場として
有名なオーバーホーフに本格的な日本食レストラン「桜」を
つくったと聞き、インタビューした。それからしばらくして
「桜」が倒産したと聞き、ドイツの歴史に翻弄されてきた
アンシュッツ氏の運命を悲しく思ったのを覚えている。
  


Posted by jtw at 18:20Comments(0)

2012年12月20日

ドイツの風景写真カレンダー2013年版

ドイツの旅行誌 Sehnsucht Deutchlandの写真コンテストの
応募作品のうち もっとも美しい12枚で カレンダーを作った。
下記サイトで 無料で そのカレンダーが見られる。
http://www.bild.de/reise/deutschland/kalender/deutschland-kalender-2013-fotografie-27699184.bild.html  


Posted by jtw at 14:54Comments(0)写真集

2012年12月02日

過疎の村に留まるinドイツ

ヴァレンホルツ村は ビーレフェルト市から
約50キロ離れている。
隣家は空き家になった。居酒屋は閉店する。お医者さま
は 年金生活に入った。
村人は不安だ。古里がなくなる。
村の人口は685人。過去10年に 人口の21.2%減った。
去年だけで21人が村を去り、13人が死んだ。
しかし村人は田園生活を守ろうと闘っている。住民運動を
おこし、隣人同士の支援を組織し、古里協会(会員240人)で
熱心に活動している。会長のPapeさん(51歳)は「ヴァレン
ホルツを死なしては ならん。諦めない」と言う。
◎居酒屋の女将Angela(63歳):
26年前に 店を開いた。一晩に カウンターに座りに来る客は 
120人にもなった。今では 時々、近くの全寮制学校の生徒が
2~3人迷い込んでくる。この年末に店を閉める。「僅かな稼ぎ
では 生きていけない。昔は 百人以上の会員のある合唱団を
もてなした。合唱団も 残っているのは 13人。一番若い団員
は65歳!これでは アカン」。
◎自動車学校:
村にスーパーも、高校(ギムナジウム)もディスコもない。
代わりに自動車学校は二つある。「ここでは車なしで、やって
いけない」。イザベル(17歳)はこの自動車学校の生徒で、
ギムナジウムへ車で通う。バスよりも 通学時間は ずっと短くなる。
◎高齢者:
四人に一人は 67歳以上だ。ヨハンナ(90歳)は 村に60年
住んでいる。彼女の姪は 都会であるビーレフェルトへ引っ越した。
「ここは誰もいなくなったからね。若い人は皆 去った。高齢者には 
素晴らしい所だった。信徒会館で 手芸の集会をしている。夏には
ヴェーザー川のほとりで 座って過ごせる」。
◎移動スーパー:
Klaus(48歳)は水曜ごとに10キロ離れた町から 移動スーパーを
運転して来る。高齢の村人の家の前に車を停める。高齢者が 
移動スーパーの駐車場まで 歩いて来るのでは ない。
商品は約2千。大半の客は 60歳以上だ。
年金生活のウルリヒ(77歳)は モルトビール・クッキー・
ライ麦パン・新聞を妻のために買う。「車は持ってないし、
スーパーは9キロ先だ。助けてくれている子どもに 頼らないで 
生きていけるのは 移動スーパーのお陰だ」。
◎若い家族:
ヨハンナ(23歳)とティロ(25歳)は 村の友達が将来への
不安を持たないようにしたい。このグラフィックデザイナー夫婦は 
市民フォーラムを設立した。月に一度、約50人が教区公会堂に
集まり 計画を話し合う。
村を そんなに早く死なしてはならん。そこで 彼らの三つの目標は:
1.良い村社会を また発展させたい。
2.私たちの強みを 広報する。今、冊子を書いている。
3.若い人と高齢者が一緒に住む多世代住宅を計画する。
◎渡し守:
写真の二人は 村の最も古い伝統の一つである 渡し舟を
守りたい。1661年から ヴァレンホルツとヴィルトハイムの間を 
木造渡船が 運行してきた。渡し銭は50セント。年間、乗船者は
2500人以上。向こう岸まで 2分もかからない。陸路だと 
20キロもある!
しかし 村は年間1万ユーロの運行経費を節約したいので 
渡し舟も 終わるかもしれない。そこで 古里協会会員で
あるWolfgang(51歳)は 高齢の船頭さんAlfredから 研修を
受けている。「私が やれば人件費を削れる。渡し舟は 
古里に なくてな ならないものだ」とWolfgangは言う。
下記サイトから抜粋:
http://www.bild.de/lifestyle/2012/bild-serie/varenholz-wir-bleiben-unserem-dorf-treu-27106522.bild.html



  


Posted by jtw at 09:05Comments(0)