2015年01月11日
高野山のMatthias Schmitd さん新聞に
2015年1月10日(土)の朝日新聞 和歌山版にシュミットさんの
記事がでています。
見出し:ドイツ人僧侶 シュミット・珠実・マティアス(54)。
和歌山版の一番大きい記事です。写真も2枚あり。
シュミットさんは 2002年4月から2003年6月まで ドイツ語を
楽しむ会で教えてくださいました。高野山からバス・ケーブル
カー・電車を乗り継いで 往復時間をいれると 9時間以上
かかるアルバイトでした。わずか一年三ヶ月 教えていただいた
のですが、2~3年 来ていただいたような気がします。
★シュミットさんの「高野ヨガ」のブログは下記へ:
http://www.koyayoga.com/
ブログは ヨガやドイツ語・英語のレッスンについて。
◎以下は記事の抜粋:
2000年に宇都宮大学に留学したクロアチア人の妻を追い、
日本でクリスマスを過ごすために 来日した。2001年4月に
得度し、2001年9月から高野山で暮らし始めた。
無量光院で 週6日の朝の「勤行」を終えると、外国からの
宿泊客の対応や予約確認などの仕事にあたる。ドイツで
習い始めた空手も続けていて、大阪の道場は週2日通う。
もうすぐ三段になる。妻は2年半前に母国のクロアチアへ戻った。
今はクロアチアでヨガと密教を教えている。シュミットさんは
「もうちょっと 勉強、修行。帰るのはまだ まだ」

写真 by SACHI
記事がでています。
見出し:ドイツ人僧侶 シュミット・珠実・マティアス(54)。
和歌山版の一番大きい記事です。写真も2枚あり。
シュミットさんは 2002年4月から2003年6月まで ドイツ語を
楽しむ会で教えてくださいました。高野山からバス・ケーブル
カー・電車を乗り継いで 往復時間をいれると 9時間以上
かかるアルバイトでした。わずか一年三ヶ月 教えていただいた
のですが、2~3年 来ていただいたような気がします。
★シュミットさんの「高野ヨガ」のブログは下記へ:
http://www.koyayoga.com/
ブログは ヨガやドイツ語・英語のレッスンについて。
◎以下は記事の抜粋:
2000年に宇都宮大学に留学したクロアチア人の妻を追い、
日本でクリスマスを過ごすために 来日した。2001年4月に
得度し、2001年9月から高野山で暮らし始めた。
無量光院で 週6日の朝の「勤行」を終えると、外国からの
宿泊客の対応や予約確認などの仕事にあたる。ドイツで
習い始めた空手も続けていて、大阪の道場は週2日通う。
もうすぐ三段になる。妻は2年半前に母国のクロアチアへ戻った。
今はクロアチアでヨガと密教を教えている。シュミットさんは
「もうちょっと 勉強、修行。帰るのはまだ まだ」

写真 by SACHI
2013年11月10日
誰でも入れる集合墓in福井県
福井県の御誕生寺の住職、板橋興宗禅師は
「誰でも入れる集合墓」をつくられた。
武生の駅からタクシーで行ける。地元では猫寺と
呼んでいるお寺に十数匹の猫がいる。
ランディさんは実家の菩提寺から 永代供養は
しないと告げられ、板橋禅師に相談に行った。
田口ランディ、”墓石の重み”、月刊「春秋」
2013年11月号 p.1~6.から抜粋。
「誰でも入れる集合墓」をつくられた。
武生の駅からタクシーで行ける。地元では猫寺と
呼んでいるお寺に十数匹の猫がいる。
ランディさんは実家の菩提寺から 永代供養は
しないと告げられ、板橋禅師に相談に行った。
田口ランディ、”墓石の重み”、月刊「春秋」
2013年11月号 p.1~6.から抜粋。

2011年08月04日
「妙好人」と呼ばれる人たちがいた
”アンイマジナブルということ12(最終回)”
大橋政人(おおはしまさひと、詩人)
月刊「未来」2011年8月号 p.16~17
から抜粋。原文は買って 読んでください。
★ 昭和の初めのころまで、わが国には妙好人
と呼ばれる人たちがごろごろいたらしい。妙好人とは
浄土系仏教の篤信家のことで、平たく言えば越後の
良寛さんを僧侶でなく、一般庶民にしたような人たち。
その生き方は良寛さんのように自由で純粋だった。
その言行録がいくつも残っている。ほとんどの妙好人は
無学で文盲に近かったから、死後、その地方の人々が
まとめたものだろう。
妙好人の研究家・楠恭氏は、「妙好人は決して単なる
有難屋ではないんであって、実に凄い、これこそ人間の
本当の生き方だということを知らせてくれる人ですよ」
(「妙好人の世界」)と言っている。
妙好人は 人一倍、求道の思いが強く、それに比例する
ように人一倍、内なる悩みは深かった。あちこちの寺へ
出かけて三十年、四十年と真剣に聴聞(僧侶の説法を聞くこと)
を続けた。その結果に得た信心の世界だから、その
生き方や言動は生半可の僧侶よりも何倍も新鮮に
印象深く周囲の人たちに影響を与えたのだろうと
想像される。
楠恭著『妙好人を語る』を読んでも 妙好人の
信仰が尋常一様でないことの片鱗が見えてくる。
浅原才市も、いまでは生地(島根県石見)に記念館も
建ち、北原白秋選の「かぜをひくとせきがでる/
さいちがご法義のかぜをひいた/念仏のせきがでるでる
」という詩を刻んだ記念碑もあるという。
禅者の鈴木大拙は「或る意味で云えば、キリストも亦、
妙好人の一人である」(岩波書店『鈴木大拙全集』十巻)
と大胆なことを言っている。
大橋政人(おおはしまさひと、詩人)
月刊「未来」2011年8月号 p.16~17
から抜粋。原文は買って 読んでください。
★ 昭和の初めのころまで、わが国には妙好人
と呼ばれる人たちがごろごろいたらしい。妙好人とは
浄土系仏教の篤信家のことで、平たく言えば越後の
良寛さんを僧侶でなく、一般庶民にしたような人たち。
その生き方は良寛さんのように自由で純粋だった。
その言行録がいくつも残っている。ほとんどの妙好人は
無学で文盲に近かったから、死後、その地方の人々が
まとめたものだろう。
妙好人の研究家・楠恭氏は、「妙好人は決して単なる
有難屋ではないんであって、実に凄い、これこそ人間の
本当の生き方だということを知らせてくれる人ですよ」
(「妙好人の世界」)と言っている。
妙好人は 人一倍、求道の思いが強く、それに比例する
ように人一倍、内なる悩みは深かった。あちこちの寺へ
出かけて三十年、四十年と真剣に聴聞(僧侶の説法を聞くこと)
を続けた。その結果に得た信心の世界だから、その
生き方や言動は生半可の僧侶よりも何倍も新鮮に
印象深く周囲の人たちに影響を与えたのだろうと
想像される。
楠恭著『妙好人を語る』を読んでも 妙好人の
信仰が尋常一様でないことの片鱗が見えてくる。
浅原才市も、いまでは生地(島根県石見)に記念館も
建ち、北原白秋選の「かぜをひくとせきがでる/
さいちがご法義のかぜをひいた/念仏のせきがでるでる
」という詩を刻んだ記念碑もあるという。
禅者の鈴木大拙は「或る意味で云えば、キリストも亦、
妙好人の一人である」(岩波書店『鈴木大拙全集』十巻)
と大胆なことを言っている。