2011年01月27日

愛徳会(慈悲の友会)修道女による施設での虐待inドイツ

2003年5月19日発:(8年前の記事です)
1950~60年代に 教会の経営する児童養護施設で修道士(女)は数千の子どもを虐待した。当時の被害者は このスキャンダルを解明したい。

(ブログ管理人の蛇足:
2010年12月に 当時の被害者への補償基金の計画が発表された。別のブログへのカキコミを貼りつけました。管理人が同じなので パクリでないです)

Gisela Nurthenは 1961年の春に15歳の時、見知らぬ女に車に乗せられ ドルトムントに向かった。「ちょっとドライブしよう。同じ年頃の女の子が たくさん居るから きっと気に入る」とその女に言われた。Giselaは母子家庭の子だった。母親に禁じられていたが ダンスに行ったりしていた。家出してハノーファへ男の子と出かけ、翌朝ヒッチハイクで戻ろうとしているところを 警察に確保された。
「さらに非行が進むだろう」という理由で 彼女はドルトムントの施設に入れられた。慈悲の友会修道女によって運営されている施設だった。棍棒で脅されながら 祈り、労働し、沈黙して2年を過ごした。敬虔な修道女による抑圧の制度だった。

戦後 西ドイツの奇跡の復興の時代に 教会の運営する約3000の施設に 20万人の子どもがいた。虐待、不法行為、社会的搾取、人権の侵害が 神と教会の名のもとに行われた。それなのに今も教会は起訴されていない。償いもしていない。

犠牲者の沈黙を初めて代弁したのは 映画「マグダレーナのシスター達」だった。アイルランドのカトリックの施設に入れられた少女の苦悩と屈辱の生活についての映画である。この映画を見て、Giselaと他のドイツの施設の元入所者は 長年の沈黙をやぶる勇気を得た。「施設の経営者、修道会、青少年局、教会の幹部に責任がある」。

アメリカと英国では 最近、カトリックの施設での当時の犠牲者が賠償を要求した。
それほど昔のことではない 1992年にSeligenstadtの施設で子ども達が殴られた。1995年には Eisingenのカトリックの施設で冷水の入った風呂に 子どもを罰として入れる事件があった。
1945年から1970年ころまで ナチ時代の最悪の教育学の実践が施設で続いた。

施設でGiselaたちは 裁縫し、洗濯し、洗濯物にアイロンかけする仕事をさせられた。会話は禁止されていて、聖母マリアの歌を歌うことは許されていた。仕事は朝6時から 10時間つづいた。ささいな過失をしても殴られ、他の罰を受けた。入所者には番号が付けられていた。教会へも トイレへも、食堂へも 二列に並んで行進した。Giselaは プレスリーの歌を寝室でハミングしたという理由で お仕置き部屋に一人いれられた。食事には 薬が混ぜられていた。子どもを静かにしておくための薬だった。

洗濯工場は修道女にとって利益の大きい仕事だった。ドルトムントのホテル、企業、病院、家庭が 客になってくれていた。洗濯工場で誰が虐待されているか 尋ねる人は いなかった。
労働する少女への賃金も、小遣いもなく、働いた年月の年金を要求する権利もなかった。Giselaは 洗濯物をプレスするローラーの担当で 暑い所で 重いローラーを扱うため すべての関節が痛んだ。シスターから性的虐待も受けた。

「マリアの家」とか「良き羊飼いの家」などという名前だけ温和な施設の中で起きたことについての資料は 今は ほとんど見ることは できない。
1945年から70年までの間に アデナウアーとエアハルトの政治のもとに 新しい自由と復興の奇跡が あったが、一方 同じ時期に50万人の子どもや青年が 人生の一番いい時期を このような施設で過ごしていた。

Herbert Kersten は Eschweil の施設の元入所者で、弟も同じ施設にいて 弟は成人して後に 性犯罪者になった。彼は再犯するのでないかという恐れを常に持ち、1998年に自殺した。弟は自殺する前に 修道女に責任があると Herbert に 言い残した。

昔の罪を認める人は 少ないが居る。幾つかのカトリックの施設で働いた修道女は「神の名のもとに」子どもを肉体的・精神的に苦しめたこと、侮辱したことを 認めた。「子供達は 防衛することができないのを 知っていた。修道女や修道士や施設の職員は 自分の気分を晴らし 暴力を行使した。」
子どもを抑圧する道具として 信仰が利用された。「神を使って 威嚇して 私達は 子どもを管理し、子どもの思考や感情を管理した」と修道女は言う。

施設から逃げ出すことは ほとんど不可能だった。子どもは閉じ込められているから 抑圧についての怒りは 絶望的状況のもとで 時として爆発した。1961年に 18歳の女性が 見張り番から 鍵を奪って脱走しようとして 見張り番の首を両手で絞めた。

今 これらの施設の大半は改装され、当時の名残はない。施設の記念誌に 当時のことは省略されていて、ファイルに メモや写真が残されていることは 稀である。

Jurgen Schubert は 18歳まで キリスト教会の経営の施設にいた。彼は 昔、苦しめられた人たちを告訴しようとしたが できなかった。法的に利用できる証拠を入手できなかったからだ。尼僧たちは彼は 記録保管所に入らせなかった。
Gisela Nurthenも 施設に居たころの苦労の跡を見つけようと 虚しい努力をした。青少年局から 後見裁判所まで、関係する機関の書類は 見つけだせないか 廃棄されているか だった。

当時の入所者の多くは 辛かった年月をただ忘れたいと思っている。パートナーや子どもにも そのことを 言わないでいる人もある。
Marion(49歳)も そうだ。彼女は これまで長い間、息子にも施設でのことを 話していなかったし、問合せにも答えなかった。
彼女が夜中に叫んだり、理由もなく 感情を爆発させたり、錠剤を飲み続けたりすることを 息子は追及した。
施設では 子どもを静かにさせておくために 食事に薬を混ぜていた。その影響で マリオンは ずっと錠剤に依存するようになっていた。
マリオンも他の多くの子どもも 繰り返し 屋根裏部屋に閉じ込められた。マリオンは12歳の時に 屋根裏部屋の 薄明かりの中で 自殺を何度も企てた。「何もかも 終わらせたかった。敬虔なシスター達は 子どもを人間として扱わなかったから」。

マリオンの母は 外国人との不倫を隠すために 生後6ヶ月のマリオンを施設に入れた。その決定をした後見人を 彼女は共犯者だと思っている。

近所の人や教師は 青少年局のために密告者になっていた。一人親の家庭の若い娘の「だらしない生き方への変化」を通報した。
被害者は 今は皆 50歳くらいになっている。

Giselaはドルトムントの施設から逃げて、21歳の時にアメリカに移住した。2~3年後にまたヴェストファーレンに戻った。公共職業安定所、社会福祉局、自助グループなどで 彼女は当時の入所者と出会った。彼らは 次第に 自分の不運を話す気持ちになっていった。そういう人たちは 力を合わせて 自分の過去と向き合おうとしている。

しかし それは又 新しい屈辱感をもたらすこともある。Gerald(53歳)は そういう経験をした。
彼は1970年に施設で6週間、暗い地下壕に閉じ込められた。彼はこのことについて責任を負う 教会の人々と話したいと思っている。謝罪の意思表示がされることを望んでいる。
ある修道士は 彼や他の子を特に残虐に扱った。しかし その人も亡くなっている。
溶接工をしているGeraldは 施設に33年ぶりに行ったところ、園長は当時の書類を見せてくれた。Geraldはページを繰って、動転した。ファイルには18歳の時の彼の写真もあった。彼が施設に入れられた理由は 内容がないことを 書類は示していた。ファイルには 彼が施設の中から母あてに出した手紙があった。修道士が取ってしまい 投函されなかったのだ。母から彼への手紙もあった。彼には手渡されなかった。
教師の一人が書いた鑑定書もあった。それには こう書かれていた:Geraldは良い環境で生きていければ、優れた 実りの多い生活をする可能性が 充分にある。
彼は これを読んで泣いた。
あの次の日に カリタス会(ドイツのカトリックの社会福祉事業団)の法律家が園長を叱った。「書類を見せることは許されるべきで なかった」と言うことだった。
Geraldにとって 自分の書類を求める 長い闘いの始まりだった。
当時施設にいたVincens神父とGeraldは 対決した。
神父は 平和を乱す子どもを「黙想室へ入れたことは あるが、短期間だった」と認めた。黙想室か地下壕か? 彼は 外界と遮断された部屋へ バケツとマットレスもない木の寝台を運び入れ、6週間一人で過ごした。神父は「それについて私は責任がないので 話しは これで終わる」と言った。
下記サイトから抜粋:
http://www.spiegel.de/spiegel/print/d-27163301.html





  


Posted by jtw at 20:45Comments(0)

2011年01月14日

元施設入所者への賠償inドイツ

2010年12月13日発:
子どもの時に施設で虐待された数十万の人々のために 
支援基金をつくる計画が発表された。1億2千万
ユーロが賠償に回される。
しかし 賠償が終わるまでに 何年もかかるかも
知れず、多くの犠牲者は 賠償を受けるまでに
死ぬのを心配している。

元児童養護施設入所者の協会が記者会見した時に 
SPDの政治家 Ingrid Matthaeus-Maierが 司会を
した。他の国々は 児童施設の犠牲者に もっと
多くを支出していることを 考えれば「我々は恥ず
べきだ」とMatthaeusは述べた。

2010年12月に最終報告書が 2年間の協議の末に 
発表された。
7年前に Spiegel誌の報道が この協議を始動させた。
2006年にはSpiegelは「神の名のもとでの暴力」と
いう本を出版し、施設での犠牲者の不運を 広く
知らせた。

忘れられた問題に耳を傾けるということが ドイツ
連邦議会に諸委員会の歴史で 初めて取り上げられた。
ドイツの子どもや青年への不法行為を初めて 
公式に棚卸しすることに 施設の経営者だった教会、
家庭省、労働組合は気が進まなかった。

ドルトムントのVincenzハイムで「慈悲の友会修道女」
のもとで過ごした 過去の辛い年月を Spiegel誌に
初めて語った女性は Gisela Nurthenだった。彼女は 
誰にも信じてもらえないだろうから 自分の過去を
語る勇気がないと言っていた。そのGiselaも亡く
なった。
しかし それは過去のことになり、教会、各州の
青少年局の代表者から成る円卓会議は「元施設入所者
の叙述は 信じられる」と明言した。

子ども達を強制的に働かせた会社は 賠償基金に
拠出していないと 施設の代表者たちは 
非難している。

賠償を受ける資格について「官僚主義的証明」は
不要だと 円卓会議の委員長は約束している。
犠牲者が賠償を受ける資格を得るには「ある程度、
信じられれば」いいことになっているが これが
何を意味するか、はっきりしない。
下記サイトから:
http://www.spiegel.de/panorama/gesellschaft/0,1518,734388,00.html  


Posted by jtw at 18:42Comments(0)

2011年01月10日

元児童施設入所者とのチャット・担当者について

2006年2月20日発:
(5年前の記事です)
長い間、施設での経験を話さなかった人が 経験を
話す気になった。そのうちの二人が Spiegel誌の 
オンライン チャットで 読者の質問に答える。
(この二人がチャットで語った内容については 
このブログの2010年12月29日のカキコミにあります)
1950年代から60年代に 数十万の子どもや青年が 
しばしば無慈悲な躾と規律の教育システムにより 
施設で養育された。

Regina Eppertはその一人。彼女はドルトムントの
Vincenzハイムで若い頃の「もっとも良いはずだった」
年月を 慈悲深い修道女のもとで暮らした。
Michael Peter Schiltskyは Westuffeln/Westfelenにある 
プロテスタント系の少年ハイムで育った。
60年代までに3000以上の施設に 50万人以上が
入所していた。

レギーナは1960年 18歳の時に妹のElkeと一緒に
施設に入るよう指示された。レギーナは1歳にも
ならない娘を連れて 施設に入らなければなら
なかった。彼女は20歳の男と結婚していたのに、
青少年局は 二人のアパートが良くないし、まとも
な結婚生活をするには未熟だという理由で 
尼僧が姉妹の面倒を見ることになった。
レギーナは 自分の娘に週に一度、日曜に2~3時間
会うことを許された。彼女は施設の子ども部屋で 
他人の乳児を 尼僧に代って毎日 世話しなければ 
ならなかったが、尼僧は すぐ隣の部屋にいる
レギーナの娘を世話することを レギーナに禁止
していた。レギーナは 平日は 自分の娘に
こっそりと会うしかなかった。同じ入所者だった
Lissyが 入り口のドアのところで 見張って
くれたので 娘に会えた。

Michael Peter Schiltskyにとって 施設で過ごした
過去と向きあうことは 自分の記憶が 本当だと
思うための方法である。彼の語る過去は あまりにも
信じにくいので 他人は「君の言っていることは 
オリバーツイストの話か?」と言う。
彼は1957年から67年まで 少年施設にいた。10歳の
時に入所を指示された。その時、ギムナージウム
(高校)への推薦をうけていた。しかし施設には 
8年制の小学校しかなかった。後に彼は短期ギムナ
ージウムを優秀な成績で卒業し、そして大学に入り、
彫刻とドイツ語学を専攻した。
今58歳になっている。二校で客員教授を勤めた。
ドイツ全国の博物館に 彼の彫刻が収められている。
しばらく前に 昔の施設へ行って 当時の所長に
会った時、所長は「施設はそんなに悪くなかった
はずだ。君は たいした人物になったのだから」
と言った。
Schiltskyは そう思わない。「いつも突然フラッシュ
バックに襲われる。臭いを嗅いだり、写真を
見たりすると 記憶がよみがえる。思い出すと、
呪われた子どもの頃に戻ってしまう。馬鈴薯を
貯蔵している地下室、暖房機械部屋、靴置き場、
食堂、ベッドなどへと記憶は戻る」。
「たしかに業績はあげた。しかし それは役に
立たない。人間として価値がないという気持ちが 
つねに離れない。そういう気持ちが ”誰にも
見えないように 隅に身を隠せ”と私に言い続ける。」
下記サイトから:
http://www.spiegel.de/panorama/0,1518,401598,00.html  


Posted by jtw at 14:00Comments(0)

2011年01月08日

元児童施設入所者・ドイツ国会前でデモ

2010年4月15日発:
(1年近く前の記事です)
元児童施設入所者250人は 昔うけた暴力と性的虐待を
糾弾するデモをベルリンで行い、賠償と謝罪を要求した。

アンゲリーカは家庭をもつということが分からない。
彼女は生まれてから 施設で過ごした。その後、
青少年局、施設、里母の間を行ったり来たりした。
辛い経験をしたから 情緒が安定したことはなかった。
結婚は挫折した。今、失業している。一度は自殺を
試みた。彼女に降りかかった犯罪的行為を 施設が
誤りだったとして、認めたことは 今まで なかった。
施設に謝罪を求めるために 彼女はオフェンブルク
からベルリンまで普通列車で 10時間半かけて
旅した。特急に乗る金はない。
彼女が 社会に向かって訴えようと思ったのは 
初めてだった。彼女のもつノボリには「文書を
公開せよ」「私達は語る」と書かれていた。
一行は 連邦議会を通り過ぎ、ブランデンブルク門
の前で謝罪と賠償を要求した。

Giordano-Brono財団の広報担当者であり、デモの
組織者の一人である Schmidt-Salomon 博士は
言う:施設を支配していたのは「陰鬱な教育学」
と彼が名付けた様式である。当時の施設の標語
(モットー)は躾と規律だった。しかし それは
実際には 体罰と従属関係だった。

多くの施設入所者は 生きる基礎としての情緒を
奪われた。ただ生き延びただけだった。
このテーマは長い間、政治的に無視されてきた。
エリートの学校でスキャンダルが告発され、初めて 
施設の子どもの訴えに耳を貸す人が現れた。
「国が監視義務を認識していなかった」と
Schmidt-Salomon博士は言う。

Peter Henselder(59歳)もデモに参加した。彼の
着ていたTシャツには 少年の尻を殴る尼僧が
描かれていた。彼は生まれてから18歳まで 
ケルンの孤児院にいた。その時に得たものは 
深い外傷跡である。
彼は神父の一人から 性的虐待を受けた。修道女から
は 神父がそんなことをする はずがないと言って 
殴られた。彼は嘘を言ったと告白することになった。
「今も多くの元入所者は 恐怖感をもっている」
と彼は言う。
★下記サイトから:
シュピーゲル誌に出た この主題についてに記事の
一覧も 下記サイトにあります。
http://www.spiegel.de/panorama/gesellschaft/0,1518,689262,00.html  


Posted by jtw at 19:19Comments(0)

2011年01月03日

千羽の野鳥が空から降ってきたinアメリカ

アーカンソー州Beebe市の2キロ四方に 
1000羽以上のクロウタドリ Amsel が 
大晦日の真夜中に 死んで落ちてきた。
大晦日に鳴らされるクラッカーに 驚いて 
ストレスのために死んだという可能性もある。
他の理由としては 大晦日に大嵐がおきたため 
雷に打たれたり、雹(ひょう)に当たって
死んだのかも知れない。
多くの鳥には 外傷があった。
犠牲鳥のうち 70羽が ウィスコンシン州の
専門家へ送られる。
下記サイトから:
http://www.bild.de/BILD/news/2011/01/02/usa-raetselhaftes-vogel-sterben/tausend-voegel-vom-himmel-gefallen.html  


Posted by jtw at 12:30Comments(0)

2011年01月02日

西ドイツ1950~70年代の児童施設での虐待

西ドイツ1950~70年代の児童施設での虐待
戦慄のシステム
2010年12月6日発:
「施設で養育された人々についての円卓会議」は
作業を終えた。
アイルランドと違い、暴力と陰鬱な教育による
犠牲者に 包括的賠償がされる訳ではない。施設
では 陰鬱で配慮に欠けた養育がされていて、
入所者は しばしば労働を強制され、多くは性的
某力の犠牲者にもなった。80万人の子どもが 
そのような施設で成長した。その多くは 適切な
学校教育も受けられず、医療も受けられなかった。
Wolfgang Focke(64歳)もその一人。施設経営者
だった国とキリスト教が 施設で過ごした人々に 
大きな間違いをしたということを認めてほしいと
願い、子ども達から奪われた威厳を戻してほしい
と彼は願っている。
強制的に労働させられたことへの謝罪、絶え間ない
侮辱、人権の組織的剥奪、理由なしの監禁について 
苦痛を共にした人々と彼は 謝罪を要求している。

円卓会議は 専門家の意見を聞き、科学者の鑑定を
得た。そして当時の国の監督役所と施設経営者に
尋ねた。
「当時の施設の子ども達に対して不当行為があった
と信じられる」と会議の最終報告書は述べている。
しかし 賠償という中心的な問題について 
ほとんど進歩はない。教会、州、連邦の管轄省は 
最後の数週間に 密かに 賠償金を減らす工作を
した。杓子定規でない 早期の賠償についての
論証は 報告書では 抹消された。

代わりに提案されたのは 複雑なものであり、
連邦全土を対象にする基金の設立、諮問委員会
基金、年金基金、トラウマ基金、地域的な公的
相談窓口などの設立が提案されている。
これらの機構が 諸委員会を経て、州と連邦の
議会で論じられ、法律になるまでには 何年も
かかる可能性がある。そのうえ、議決されても 
金の支援は得にくいだろう。なぜなら 犠牲者は
「困難な生活をしている」ということを 個人
個人が 証明しなければならないからだ。

当時の恐怖の施設を経営していた国と教会は 
数十年たった今、道徳的責任を しだいに認め
つつあるが、資金の提供からは 逃げている。
連邦、州、教会が基金の1/3ずつを 用意する
ということで 意見が一致しているだけである。
Stefan Beuerle(70歳)は「誰も具体的な提案を
しない」と嘆く。この解明作業を始動した犠牲者
たちは 死につつある。
施設養育を不正なシステムとして示す文は 
報告書で 抹消された。これは集団賠償を回避
するためである。「一括賠償」あるいは「一括
犠牲者年金」は国と教会の代表者によって
「実現不可能」として拒否された。

組織的な不当行為が子どもや青年になされたと 
科学者たちは繰り返し述べた。畑や洗濯工場、
手作業場での 強制労働により 1949年から
1975年の間に 州や地方自治体の青少年支援
予算は 数百億の負担軽減になったと 科学者
たちは 見積もっている。
しばしば 長年、賃金なしに、社会保険や年金も
なしに、働かされた被害者は 強制労働は憲法違反
であったと論じている。したがって 施設の
子どもの代表者は 月額300ユーロの犠牲者年金か 
54000ユーロの一時金かと求めている。

ベルリンの教育学者 Manfred Kappeler(70歳)は 
円卓会議で専門家として意見の述べた。科学的調査
に基づき 彼は 教会関係者と政治家の無知を
批判した。彼は最新の著作「Anvertraut und ausgeliefert」
において カトリック系、プロテスタント系、改革派
教会系の施設の持つ共通性を分析した:「個々の
犯人による遺憾な行為が 問題なのではない。施設の
経営者が責任を負うべきなのは 労働基準量と
規則を備えた残忍なシステムに ついてである。
暴力が計画性をもっていたシステムについてだ。」

円卓会議は 当時の3000の施設での性的暴力を
調査することを 怠った。議長によれば、性的虐待
についての別の円卓会議が これを扱う。

Wolfgang Fockeは5年近く前に元施設入所者として
ドイツ連邦議会に請願し、それが円卓会議の結成に
つながった。
今、彼は深い失望に襲われている。アイルランドは 
ドイツよりも裕福でないのに 14768人の元施設
入所者に一人平均76500ユーロの賠償を支払った。
彼は このことへの注意を喚起している。
「国や教会によって生きる機会が奪われたことが 
アイルランドで評価されているのに 豊かなドイツ
で評価されないのか?」と彼は問いかける。「子ども
らしく過ごせるはずだった時代は 強奪され、永久に
失われた。しかし 温かい言葉だけでも 悪夢を
和らげてくれる。私たちは 今もなお悪夢に
苦しんでいる。」
下記サイトから:
http://www.spiegel.de/spiegel/print/d-75476915.html

★ 別のブログにカキコミしたのを貼りつけました。





















  


Posted by jtw at 11:39Comments(0)