2011年01月10日

元児童施設入所者とのチャット・担当者について

2006年2月20日発:
(5年前の記事です)
長い間、施設での経験を話さなかった人が 経験を
話す気になった。そのうちの二人が Spiegel誌の 
オンライン チャットで 読者の質問に答える。
(この二人がチャットで語った内容については 
このブログの2010年12月29日のカキコミにあります)
1950年代から60年代に 数十万の子どもや青年が 
しばしば無慈悲な躾と規律の教育システムにより 
施設で養育された。

Regina Eppertはその一人。彼女はドルトムントの
Vincenzハイムで若い頃の「もっとも良いはずだった」
年月を 慈悲深い修道女のもとで暮らした。
Michael Peter Schiltskyは Westuffeln/Westfelenにある 
プロテスタント系の少年ハイムで育った。
60年代までに3000以上の施設に 50万人以上が
入所していた。

レギーナは1960年 18歳の時に妹のElkeと一緒に
施設に入るよう指示された。レギーナは1歳にも
ならない娘を連れて 施設に入らなければなら
なかった。彼女は20歳の男と結婚していたのに、
青少年局は 二人のアパートが良くないし、まとも
な結婚生活をするには未熟だという理由で 
尼僧が姉妹の面倒を見ることになった。
レギーナは 自分の娘に週に一度、日曜に2~3時間
会うことを許された。彼女は施設の子ども部屋で 
他人の乳児を 尼僧に代って毎日 世話しなければ 
ならなかったが、尼僧は すぐ隣の部屋にいる
レギーナの娘を世話することを レギーナに禁止
していた。レギーナは 平日は 自分の娘に
こっそりと会うしかなかった。同じ入所者だった
Lissyが 入り口のドアのところで 見張って
くれたので 娘に会えた。

Michael Peter Schiltskyにとって 施設で過ごした
過去と向きあうことは 自分の記憶が 本当だと
思うための方法である。彼の語る過去は あまりにも
信じにくいので 他人は「君の言っていることは 
オリバーツイストの話か?」と言う。
彼は1957年から67年まで 少年施設にいた。10歳の
時に入所を指示された。その時、ギムナージウム
(高校)への推薦をうけていた。しかし施設には 
8年制の小学校しかなかった。後に彼は短期ギムナ
ージウムを優秀な成績で卒業し、そして大学に入り、
彫刻とドイツ語学を専攻した。
今58歳になっている。二校で客員教授を勤めた。
ドイツ全国の博物館に 彼の彫刻が収められている。
しばらく前に 昔の施設へ行って 当時の所長に
会った時、所長は「施設はそんなに悪くなかった
はずだ。君は たいした人物になったのだから」
と言った。
Schiltskyは そう思わない。「いつも突然フラッシュ
バックに襲われる。臭いを嗅いだり、写真を
見たりすると 記憶がよみがえる。思い出すと、
呪われた子どもの頃に戻ってしまう。馬鈴薯を
貯蔵している地下室、暖房機械部屋、靴置き場、
食堂、ベッドなどへと記憶は戻る」。
「たしかに業績はあげた。しかし それは役に
立たない。人間として価値がないという気持ちが 
つねに離れない。そういう気持ちが ”誰にも
見えないように 隅に身を隠せ”と私に言い続ける。」
下記サイトから:
http://www.spiegel.de/panorama/0,1518,401598,00.html  


Posted by jtw at 14:00Comments(0)