2011年06月29日
脱原発に大きく舵を切ったドイツ・永井潤子
月刊「未来」2011年7月号p.12~13
定価105円。
原文は 勝って 読んでください。
原発推進派だったメルケル首相は 福島原発の事故が
起きた翌日 3月12日には 国内のすべての原発の
安全点検を命じ、15日には 古い原発七基の運転を
一時停止するなどの 政策を実施した。
メルケル首相は福島原発の事故直後に 有識者17人に
よる政府諮問機関を立ち上げた。この倫理委員会は
十時間以上に及ぶ議論の様子をテレビで生中継した。
25年前のチェルノブイリ事故の被害を受けた経験が
トラウマになっている面もあるため、ドイツ市民は
福島の事故直後から 原発早期撤退を求める大規模な
デモを 繰り返してきた。
定価105円。
原文は 勝って 読んでください。
原発推進派だったメルケル首相は 福島原発の事故が
起きた翌日 3月12日には 国内のすべての原発の
安全点検を命じ、15日には 古い原発七基の運転を
一時停止するなどの 政策を実施した。
メルケル首相は福島原発の事故直後に 有識者17人に
よる政府諮問機関を立ち上げた。この倫理委員会は
十時間以上に及ぶ議論の様子をテレビで生中継した。
25年前のチェルノブイリ事故の被害を受けた経験が
トラウマになっている面もあるため、ドイツ市民は
福島の事故直後から 原発早期撤退を求める大規模な
デモを 繰り返してきた。
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18:24
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2011年06月28日
ゲイ・プライド・パレード、今年も
6月末から7月に 恒例のデモが世界中で行われる。
下記サイトに写真11枚:
http://www.stern.de/lifestyle/lebensart/gay-pride-paraden-2011-schrill-und-bunt-na-und-1699810.html
写真1. バルセローナ。
先週末に 多くの大都市で 権利を主張するために
ゲイやレズビアンが デモをした。
3. コロンビアは他の南米の国と違い、同性愛に寛容だ。
少なくとも、同性愛を差別する法律はない。
4. 偽警官。 ブラジルではカトリックが強いのに、
同性愛は広く受け入れられている。
6. イスタンブールのレズビアン。 トルコは
イスラム圏の中では 同性愛に寛容だが、ゲイとして
顔出しするのは 難しい。
8. ニューヨーク州では 同性結婚が 法律で認め
られるようになった。
9. メキシコ憲法は 2001年から 性的志向に基づく
差別を禁じている。
10. グアテマラのような小国でも 同性結婚を認める
ようにというデモが 行われた。
11. ベルリンでも クリストファー・ストリート・
デイが祝われた。
下記サイトに写真11枚:
http://www.stern.de/lifestyle/lebensart/gay-pride-paraden-2011-schrill-und-bunt-na-und-1699810.html
写真1. バルセローナ。
先週末に 多くの大都市で 権利を主張するために
ゲイやレズビアンが デモをした。
3. コロンビアは他の南米の国と違い、同性愛に寛容だ。
少なくとも、同性愛を差別する法律はない。
4. 偽警官。 ブラジルではカトリックが強いのに、
同性愛は広く受け入れられている。
6. イスタンブールのレズビアン。 トルコは
イスラム圏の中では 同性愛に寛容だが、ゲイとして
顔出しするのは 難しい。
8. ニューヨーク州では 同性結婚が 法律で認め
られるようになった。
9. メキシコ憲法は 2001年から 性的志向に基づく
差別を禁じている。
10. グアテマラのような小国でも 同性結婚を認める
ようにというデモが 行われた。
11. ベルリンでも クリストファー・ストリート・
デイが祝われた。
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17:52
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2011年06月26日
チェルノブイリ事故直後の日常を描く映画
「ある土曜日」は ロシアのAlexsander Mindadze監督による。
チェルノブイリの近くの町 Prypiatで起きた惨事を扱う。
ベルリン映画コンクール ベルリナーレに参加した映画。
1986年4月26日に 第4原発の屋根は 燃え、消防車は
見られたが パニックは抑えられた。
共産党は「原子力は危険でない。チェルノブイリの原発は
まったく安全だ」と常に言っていた。
この映画の主人公 Valerijと その彼女 Veraの行動は
今、思えば単純だ。モスクワの党本部は 絶対に間違いを
しないという信心を 彼らの行動は 表していた。
チェルノブイリでは その日にも 普通の生活が
とりとめもなく続いていた。一方では 町と住民を脅かす
戦慄の惨事が 起きていた。この食い違いは 不可解であり、
今日の知識をもってしては、耐えられない。
惨事の後、36時間たって やっと人々は避難した。多くの
人が死んだり、重い放射線障碍に苦しんだりした。
下記サイトから:
http://www.zeit.de/kultur/film/2011-02/berlinale-samstag-tschernobyl
チェルノブイリの近くの町 Prypiatで起きた惨事を扱う。
ベルリン映画コンクール ベルリナーレに参加した映画。
1986年4月26日に 第4原発の屋根は 燃え、消防車は
見られたが パニックは抑えられた。
共産党は「原子力は危険でない。チェルノブイリの原発は
まったく安全だ」と常に言っていた。
この映画の主人公 Valerijと その彼女 Veraの行動は
今、思えば単純だ。モスクワの党本部は 絶対に間違いを
しないという信心を 彼らの行動は 表していた。
チェルノブイリでは その日にも 普通の生活が
とりとめもなく続いていた。一方では 町と住民を脅かす
戦慄の惨事が 起きていた。この食い違いは 不可解であり、
今日の知識をもってしては、耐えられない。
惨事の後、36時間たって やっと人々は避難した。多くの
人が死んだり、重い放射線障碍に苦しんだりした。
下記サイトから:
http://www.zeit.de/kultur/film/2011-02/berlinale-samstag-tschernobyl
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13:18
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2011年06月25日
軽自動車 Kei-Cars 55年の歴史
下記 ドイツのメディアに写真24枚:
http://www.n-tv.de/mediathek/bilderserien/auto/55-Jahre-kuriose-Kei-Cars-article3582696.html
古いスバル360から日本の最新の軽まで。
1960年ころまでドイツで作られた小型車や
スマート、Peugeot, Citroen などの写真も。
http://www.n-tv.de/mediathek/bilderserien/auto/55-Jahre-kuriose-Kei-Cars-article3582696.html
古いスバル360から日本の最新の軽まで。
1960年ころまでドイツで作られた小型車や
スマート、Peugeot, Citroen などの写真も。
Posted by jtw at
17:20
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2011年06月22日
チェルノブイリで放射線と闘った人
福島の原発で今、働いている人がしている任務を
Mikola Isajewはチェルノブイリでした。
Mikola(当時30歳)は1986年4月26日の朝、いつもの
ようにバスに乗り 原発に着いた。原子炉の屋根は
無くなっていた。同僚が無茶に高い放射線量を測定
したと 言い張るのを聞いて、冗談だと思った。
何も心配することはないと言う話だったので、6時間の
勤務を 原発事故の中心から 数メーターのところで
終えた。家への帰りに 数千人の兵士が 放射線防護服を
着て、道路に展開しているのを見た。彼は やっと
一日後に 事故が どれほどのものかを 知った。
その時、彼の娘は4歳で、息子は4ヶ月だった。彼と
同僚以外に この大惨事を 片付ける人は いないと
確信していた。
事故の直後の数日間に 年間許容放射線量の50ミリ
シーベルトを被爆した。
1988年まで彼は原子炉を覆う石棺建設の責任者の
一人だった。この建設に1日に10万人以上の兵士が
動員された。逃亡した兵士は投獄された。
事故処理にあたった人は 80万人以上になった。ソ連の
ような独裁制のもとで だけ こういう動員は可能だった。
福島では「自発的に」働く人が わずか数百人、投入
されている。
原発の爆発をどう消火するか 専門家も 当時は知らな
かったので 砂・化学物質・鉛を投げ入れることになった。
消火できたのは やっと10日後だった。
結局、欧州の40%が 汚染された。9万テラベクレル以上が
大気中に放出された。今も南バイエルンでも その
放射線は測定できる。
1年後に彼は 肝炎になり、キエフの放射線センターに
治療に行かねばならなくなった。胆嚢が悪く、アレルギー・
糖尿病・喘息・貧血もある。55歳も今まで 癌には
なっていないが、癌は 30~40年かかって 出てくる
ものだ。
彼は 英雄とされている。原発事故の処理にあたって、
命をはった多くの人の 一人だ。爆発のあと間もなく
亡くなった人も多い。
彼は 勲章を二つも授与された。
原発の放射線地獄の中で 働いた時に 不安は なかった。
あまり眠れなかったが 毎日 事故処理に向かった。
これは 社会主義教育を 受けたからだった。一般の
人々が 全てであり、個人は 問題ではないと 彼は言う。
彼を 英雄にしたのは 義務感である。今も彼は言う:
「目に見えない敵との 戦争だった。ただ 故国を
救わねば ならなかった」。
下記サイトから:
http://www.stern.de/panorama/aufraeumarbeiter-aus-tschernobyl-der-strahlenkrieger-1674273.html
Mikola Isajewはチェルノブイリでした。
Mikola(当時30歳)は1986年4月26日の朝、いつもの
ようにバスに乗り 原発に着いた。原子炉の屋根は
無くなっていた。同僚が無茶に高い放射線量を測定
したと 言い張るのを聞いて、冗談だと思った。
何も心配することはないと言う話だったので、6時間の
勤務を 原発事故の中心から 数メーターのところで
終えた。家への帰りに 数千人の兵士が 放射線防護服を
着て、道路に展開しているのを見た。彼は やっと
一日後に 事故が どれほどのものかを 知った。
その時、彼の娘は4歳で、息子は4ヶ月だった。彼と
同僚以外に この大惨事を 片付ける人は いないと
確信していた。
事故の直後の数日間に 年間許容放射線量の50ミリ
シーベルトを被爆した。
1988年まで彼は原子炉を覆う石棺建設の責任者の
一人だった。この建設に1日に10万人以上の兵士が
動員された。逃亡した兵士は投獄された。
事故処理にあたった人は 80万人以上になった。ソ連の
ような独裁制のもとで だけ こういう動員は可能だった。
福島では「自発的に」働く人が わずか数百人、投入
されている。
原発の爆発をどう消火するか 専門家も 当時は知らな
かったので 砂・化学物質・鉛を投げ入れることになった。
消火できたのは やっと10日後だった。
結局、欧州の40%が 汚染された。9万テラベクレル以上が
大気中に放出された。今も南バイエルンでも その
放射線は測定できる。
1年後に彼は 肝炎になり、キエフの放射線センターに
治療に行かねばならなくなった。胆嚢が悪く、アレルギー・
糖尿病・喘息・貧血もある。55歳も今まで 癌には
なっていないが、癌は 30~40年かかって 出てくる
ものだ。
彼は 英雄とされている。原発事故の処理にあたって、
命をはった多くの人の 一人だ。爆発のあと間もなく
亡くなった人も多い。
彼は 勲章を二つも授与された。
原発の放射線地獄の中で 働いた時に 不安は なかった。
あまり眠れなかったが 毎日 事故処理に向かった。
これは 社会主義教育を 受けたからだった。一般の
人々が 全てであり、個人は 問題ではないと 彼は言う。
彼を 英雄にしたのは 義務感である。今も彼は言う:
「目に見えない敵との 戦争だった。ただ 故国を
救わねば ならなかった」。
下記サイトから:
http://www.stern.de/panorama/aufraeumarbeiter-aus-tschernobyl-der-strahlenkrieger-1674273.html
Posted by jtw at
21:26
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2011年06月07日
幼稚園で先生が銃撃から子どもを守るinメキシコ麻薬戦争
銃声の聞こえる中で Martha Ivetta Rivera Alanis先生は
歌を歌った。子ども達はそれに加わって歌った。
先生は英雄になった。
モンテレイ市の幼稚園でマルタ先生が授業をしていると、
外で突然銃声がした。彼女は5~6歳児に 床に伏せ、
じっと しているように指示した。
(下記サイトに その動画があり、銃声も録音されている)
http://www.spiegel.de/schulspiegel/ausland/0,1518,765939,00.html
子ども達が伏せたまま 歌った歌は かわいい恐竜Barneyの
歌で、チョコレートの雨粒を口で受けるのを 子ども達は
真似た。
2006年から メキシコでは 麻薬戦争が続き、約37000人
が犠牲になった。モンテレイでも 麻薬カルテル同士の
市街戦が続く。
歌を歌った。子ども達はそれに加わって歌った。
先生は英雄になった。
モンテレイ市の幼稚園でマルタ先生が授業をしていると、
外で突然銃声がした。彼女は5~6歳児に 床に伏せ、
じっと しているように指示した。
(下記サイトに その動画があり、銃声も録音されている)
http://www.spiegel.de/schulspiegel/ausland/0,1518,765939,00.html
子ども達が伏せたまま 歌った歌は かわいい恐竜Barneyの
歌で、チョコレートの雨粒を口で受けるのを 子ども達は
真似た。
2006年から メキシコでは 麻薬戦争が続き、約37000人
が犠牲になった。モンテレイでも 麻薬カルテル同士の
市街戦が続く。
Posted by jtw at
15:25
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2011年06月05日
チェルノブイリ惨事は終わらない
下記サイトに 写真・図・地図など数十あり。
下記サイトから抜粋:
http://www.welt.de/wissenschaft/article13172213/Die-Katastrophe-die-niemals-endet.html
25年前 1986年4月26日に原発が爆発した。その影響は
永久に環境に負担をかける。
die Weltの記者は ウクライナの首都キエフからバスで
チェルノブイリに着いた。原発を覆う石棺の前の駐車場で
線量計は毎分4千単位を示した。キエフでは 10単位、
立入禁止地域の始まりでは500くらいであった。
1986年の春と夏に原発火災を消火し 防護の覆いを
建てるために30万人以上の兵士と民警が 投入された。
事故から今までには 80万人までの処理作業員が
現場に投入されている。
独裁国家が 線量の測定を許さなかったため、チェルノ
ブイリ周辺の人々が どのくらいの放射線に曝された
かは 分からない。
この立入禁止区域1日ツアーで 約3マイクロシーベルト
の放射線を浴びる。この線量は ニューヨークから
フランクフルトまで飛行機に乗る場合に 浴びる
線量の約1/20である。
今も原発で3500人が働いている。彼らは2週間 働いて、
2週間 休む。立入禁止区域は 原発から半径30キロの
範囲である。禁止区域への出入りには 許可証が要る。
石棺などの構築物から 放射線に汚染された ホコリが
飛散する。
そのうえ 石棺が 老朽化して 崩壊すると、放射線を
もつホコリの雲は 半径50キロの範囲を汚染するだろう。
石棺を覆う 防護構築物は 計画されて いるが、この
建築を いつ始めたとしても、極めて危険な環境で
工事が 行われることになる。約800の穴に 過去30年に
放射線で汚染された 車両・建築資材・衣類などが
入れられている。原発から 約1キロ離れた地点で、
線量計は もっとも大きい値を示した。そこは「赤い森」
と言われる所で 原発から漏れた放射線が 大量に
降りた所だ。木々は 枯れる前に 真っ赤になった。
Mykola Isaiev(56歳)は 当時を思い出して 語った:
「春になると 夕方に 家の前に座って、暖かい空気を
楽しんだ」。事故の日は 土曜日だった。白ロシアから
行商の人達が 牛乳・果物・野菜を持ってきていた。
Isaievは 4月26日に 交代勤務に入る前に 同僚から
放射線が高くなっていると 聞いたとき、冗談だと思った。
1991年まで 彼は原発で働いた。肝臓病と心臓病のために
普通よりも早く 年金生活に入った。
石棺を覆う防護 建造物は 今までの計画の速さで
進行したとすると 完成するまでに 百年かかるだろうと
彼は言う。
原発事故処理にあたった人達は 英雄と讃えられた。勲章が
授与され、年金も医療も サナトリウムへの入寮も
確かなものにされた。しかし ソ連の崩壊と共に 社会の
団結も消えたと 彼は思う。
「ウクライナは 我々のナンギに関心を示さない。政府は
財政負担を やめたがっている」。★
下記サイトから抜粋:
http://www.welt.de/wissenschaft/article13172213/Die-Katastrophe-die-niemals-endet.html
25年前 1986年4月26日に原発が爆発した。その影響は
永久に環境に負担をかける。
die Weltの記者は ウクライナの首都キエフからバスで
チェルノブイリに着いた。原発を覆う石棺の前の駐車場で
線量計は毎分4千単位を示した。キエフでは 10単位、
立入禁止地域の始まりでは500くらいであった。
1986年の春と夏に原発火災を消火し 防護の覆いを
建てるために30万人以上の兵士と民警が 投入された。
事故から今までには 80万人までの処理作業員が
現場に投入されている。
独裁国家が 線量の測定を許さなかったため、チェルノ
ブイリ周辺の人々が どのくらいの放射線に曝された
かは 分からない。
この立入禁止区域1日ツアーで 約3マイクロシーベルト
の放射線を浴びる。この線量は ニューヨークから
フランクフルトまで飛行機に乗る場合に 浴びる
線量の約1/20である。
今も原発で3500人が働いている。彼らは2週間 働いて、
2週間 休む。立入禁止区域は 原発から半径30キロの
範囲である。禁止区域への出入りには 許可証が要る。
石棺などの構築物から 放射線に汚染された ホコリが
飛散する。
そのうえ 石棺が 老朽化して 崩壊すると、放射線を
もつホコリの雲は 半径50キロの範囲を汚染するだろう。
石棺を覆う 防護構築物は 計画されて いるが、この
建築を いつ始めたとしても、極めて危険な環境で
工事が 行われることになる。約800の穴に 過去30年に
放射線で汚染された 車両・建築資材・衣類などが
入れられている。原発から 約1キロ離れた地点で、
線量計は もっとも大きい値を示した。そこは「赤い森」
と言われる所で 原発から漏れた放射線が 大量に
降りた所だ。木々は 枯れる前に 真っ赤になった。
Mykola Isaiev(56歳)は 当時を思い出して 語った:
「春になると 夕方に 家の前に座って、暖かい空気を
楽しんだ」。事故の日は 土曜日だった。白ロシアから
行商の人達が 牛乳・果物・野菜を持ってきていた。
Isaievは 4月26日に 交代勤務に入る前に 同僚から
放射線が高くなっていると 聞いたとき、冗談だと思った。
1991年まで 彼は原発で働いた。肝臓病と心臓病のために
普通よりも早く 年金生活に入った。
石棺を覆う防護 建造物は 今までの計画の速さで
進行したとすると 完成するまでに 百年かかるだろうと
彼は言う。
原発事故処理にあたった人達は 英雄と讃えられた。勲章が
授与され、年金も医療も サナトリウムへの入寮も
確かなものにされた。しかし ソ連の崩壊と共に 社会の
団結も消えたと 彼は思う。
「ウクライナは 我々のナンギに関心を示さない。政府は
財政負担を やめたがっている」。★
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16:28
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