2011年04月29日

ドイツの医師チェルノブイリ被害児(甲状腺癌)を治療

ヴュルツブルク大学病院の放射線医学の教授 
Christoph Reinersは チェルノブイリ原発事故のあと、
白ロシアの甲状腺癌の子どもたちをドイツに連れて
きて治療した。最初はエッセンの大学病院で、後に
ヴュルツブルク大学で。
「チェルノブイリのための医療支援」協会は 
白ロシアの甲状腺癌患者のアフターケアに尽力し、
ライナース教授の設立した Arnica財団と協同して
活動している。
白ロシアで甲状腺癌になた7歳の少年を 1992年に
ドイツのエッセンで 治療することになった。少年は 
白ロシアの医師から余命2~3ヶ月と言われ、母親は 
ドイツに専門家を求めてきた。この子が 最初の
チェルノブイリの被害児 患者だった。
その後、WHOの代表団の一員として 白ロシアへ
2~3ヶ月招かれ、早期発見プログラムのための資金を 
WHO加盟国から 得ようと努力した。
その頃、甲状腺癌の子どものことを考える人は いな
かったが、白ロシアには 少なくとも300~400人の 
甲状腺癌の子がいた。
その後、20回ほど白ロシアに行き、治療方針をたてる
ために 世界中の同僚と会った。白ロシアでの治療
施設と共同研究プロジェクトのために 約400万ユーロ
を集めた。
白ロシアでは 子どもに充分なアフターケアが 提供
されないので特に重度の甲状腺癌の子を ドイツに
連れて来る必要もあった。
250人の子を治療し かなり良い成果を得た。

クリスマスカードを 子ども達から もらうのは 
楽しみだ。何よりも 嬉しいのは 治療した子が 
成人し、子どもを持ったという知らせを受ける時だ。
110人の「孫」がいる。250人の子が 110人の
子どもを持ったのだ。

チェルノブイリは 今の白ロシアの国境から わずか
10キロの所にある。白ロシアの大統領は 首都ミンスクに 
甲状腺癌の疑いのある子どもを治療する一つの病院を
指定した。一病院に病児が 集中しているために 
協力しやすかった。

原発事故によって 多くの放射性ヨードが放出され、
特に ヨード131は大気圏の高い層に到達し、広範囲に
拡散し、雨に入って落ちてくる。人は それを空気から
吸うか、食物から取り入れるかする。放射性ヨードは 
甲状腺に蓄積される。
ヨードの錠剤を飲むと 甲状腺がヨードで満たされ、
放射性ヨードを受け入れなくなるが 当時 白ロシアに 
そういう錠剤はなかった。

白ロシアで 多くの子が甲状腺癌になった 理由の一つは 
汚染された牛乳を飲むことが 禁じられなかったことで
あり、もう一つの理由は 子どもの甲状腺は 成人の
よりも 放射線を受け入れやすいという ことだ。

今 チェルノブイリ事故によって 甲状腺癌になった人は 
約6千人いる。今後 その数は 15000~2万人に増えると
予測される。

私の治療した子 250人のうち 一人は死亡した。
1992年に7歳だった子が 20歳で 亡くなった。生きながら
えた13年は 家族にとって 贈り物だったと ご遺族は
言ってくれた。

チェルノブイリでは 福島よりも 遙かに多くの放射性
ヨードが10日間 放出された。そのうえ 白ロシアや
ウクライナには 今ある予防措置は なかった。

(記者の質問「福島へ手伝いに行かないのか?」に答えて)
日本の同僚たちは 自分で やっていける。8週間前に 
WHOの 放射線事故センターの集会に参加するために 
長崎大学へ行った。日本には 国際的に評価されている 
放射線の専門家がいる。その方々から 私も学んでいる。

下記サイトから: 
http://www.sueddeutsche.de/politik/jahre-super-gau-von-tschernobyl-tschernobyl-hat-mein-leben-veraendert-1.1086775  


Posted by jtw at 19:13Comments(0)

2011年04月29日

Paolo Pellegrin戦場のカメラマン・東日本大震災

多くの賞を受け、今 ローマとニューヨークに住む
有名な写真家 Paolo Pellegrin(46歳)は 震災地に
滞在し、写真を発表した。
ペレグリンは 戦場や危機的地域を 写真で伝える。
下記サイトに 写真11枚:
http://www.zeit.de/kultur/kunst/2011-04/fs-paolo-pellegrin-japan-2  


Posted by jtw at 08:12Comments(0)

2011年04月26日

チェルノブイリ事故の前の穏やかな村・写真17枚

下記サイトに 白黒写真:
http://www.zeit.de/gesellschaft/zeitgeschehen/2011-04/fs-semjon-prosjak-2

原発から64キロ離れた Sednjew 村の 牛、犬と人々、
荷車をひく馬、ぬかるむ道、川、水鳥、川舟。
写真は みすぼらしいが 暖かい光景を示している。
写真家 Semjon Prosjak は 1976年から1986年まで 
事故の はるか以前の この地方を撮影した。
彼の写真は 率直に 人々の生活の 貧しさを描写
していたので ソ連政府は 写真の公開を禁止した。
1931年生まれの彼は 第二次大戦中 ドイツの強制
収容所に入れられ、その後 ソ連の捕虜になり、
ついに 解放されて 写真を撮し始めた。今 
ドイツのザーレ川にのぞむハレ市に住む。
  


Posted by jtw at 13:25Comments(0)

2011年04月25日

チェルノブイリ惨事から25年。封鎖地域の人々の写真

下記サイトに写真13枚:
http://www.stern.de/fotografie/25-jahre-tschernobyl-die-menschen-aus-der-sperrzone-1675081.html

写真1. ソ連の時代のレーニン像は そのまま。
2. 原発事故は 甲状腺疾患、自己免疫疾患、癌などを
引き起こした。Sergej は 原発事故現場で働いていない
のに 腫瘍に苦しんできた。この事故の犠牲者数は 
はっきりしないが 数十万人であろうと推測されている。
3. 墓石には 高い放射線によって死んだと記されている。
4. 古里に住むのは この夫婦だけになった。
5. ゴーストタウン Pripjat の共産党本部。
6. 放射線を浴びた赤ちゃん。この子は 1986年4月に
生まれた。その後、障害をもって生まれる子は 減った
が、骨の腫瘍やアレルギー疾患に苦しむ新生児は 多い。
7. 首都 Kiew から 10キロ離れた地方は 比較的 
放射線の危険が少ないが この子は 複数の脳障害をもつ。
8. 汚染された土に育った作物。危険のない食料を買う
金のない人は 封鎖地域で 耕作する。そういう作物が 
遠い町で売られることは 稀でない。
9. 放射線による 健康への危険は いつ、どういう
風に、誰に 現れるか 分からない。封鎖地域の 
この子は 今のところ幸運だ。
10. この子は それほど 幸運でない。以前は 
障碍児は 1年に33日 療養所に滞在できた。今は 
18日間の滞在に減らされた。危険のない食品を買う
ための 補助金も 減らされた。
11. チェルノブイリの事故現場を 片付けた作業員は 
今も英雄と されている。
12. 亡き夫は 原子炉を覆う 石棺の建設作業をした。
13. 封鎖地区への入口。 原子炉から半径30キロの
ところにある。事故後 15年たっても 監視と管理の
ために 原発で 3500人が今も働いている。チェルノ
ブイリでは 他に 4000人が 働いている。彼らは 
2週間ごとに この地区を 離れなければ ならない。  


Posted by jtw at 19:22Comments(0)

2011年04月23日

2011年04月18日

事務椅子に乗って走る競走inドイツ

第3回 事務椅子競走 選手権は ドイツの
ヘッセンで開かれた。
下記サイトに 写真13枚:
http://www.welt.de/vermischtes/article13194916/Die-Deutschen-Meisterschaften-im-Buerostuhlrennen.html

大会の標語は 無傷でゴールにたどり着くこと。

参加者は 約60人。
約200メーターの急勾配の道を 足と手を使って 
椅子に乗って動く。椅子に 肘掛けは なくても いい。
写真8の 参加者は 放射能で 他の競走者を 
威圧するつもり。

ブログ管理人の蛇足:
金も あまり かからないし、不景気な日本にも 
向いている行事です。参加者は 写真を みる
限りでは 男だけのようです。
  


Posted by jtw at 09:04Comments(0)

2011年04月10日

第46回アメリカ・カントリー音楽賞

2011年4月3日にラスベガスで。
「今年のアーティスト」としてTaylor Swiftが選ばれた。
Miranda Lambert は「最優秀女性歌手」、
Brad Praisley が「最優秀男性歌手」に。
他に Jason Aldean, Toby Keith, Keith Urban。

下記サイトから:
http://www.stern.de/kultur/musik/46-country-music-awards-miranda-lambert-vierfach-ausgezeichnet-1670858.html  


Posted by jtw at 07:57Comments(0)

2011年04月05日

チェルノブイリ「死の区域」訪問団

下記サイトに動画:
http://www.tagesschau.de/ausland/tschernobyl122.html

もし福島の原発事故が制御不能になったら
どうなるかを 知るために 日本の記者達が
死の区域をバスで 訪れた。
元ソ連の原発のあった地域は 放射能のため
今も 4000平方キロに 人が住めない。  


Posted by jtw at 18:40Comments(0)

2011年04月04日

チェルノブイリ原発事故・対応に動員された人々の被害

約38万の兵士が原子炉大惨事に投入された。一部の兵士は 
ほとんど無防備で作業した。多くは死んだ。生き残った
人々は賠償を求め闘っている。

Alexej Schaschkowは1986年にロシアで 最高の核研究所
Kurtschatow研究所で働いていた。彼は今、第一級障害者である。
去年1年で入院していなかったのは 2ヶ月だけだった。その
2ヶ月を法廷闘争につかった。彼は1986年4月26日の
大惨事の1ヶ月後に 初めて 事故現場に来た。その後、
5年間 放射性物質の検査資料を集めるために 定期的に
通っていた。1991年、40歳のとき 最初の心筋梗塞
になった。

Michail Kontschaowskiは モスクワの放射線病研究室の
室長だった。原発の職員や消防士など、大惨事の最初の
犠牲者の治療をした。彼の診察した患者は 全部で
250人。そのうち130人は重症だった。うち26人は 
3ヶ月以内に死んだ。3ヶ月間は 戦場のようだった。
大半の人々は 放射能について何も知らなかった。政府は 
真実を隠した。どうやって 汚染を減らせるかについて 
説明は なかった。ただ パニックが無かっただけだった。

技師のGerman Belowは 放射能にデータが隠されて
いたのを覚えている。彼は 工場の研究室長だった。
福島の原発と同じ型の 原子炉の冷却システムを設計
していた。彼がチェルノブイリに来たのは事故の4ヵ月後 
1986年8月だった。
1日に10分 働いて、2週間 就労し、その後に療養所に
入った。その8月は 原子炉を覆う石棺の建設中だった。
ものすごく長いクレーンが使われ、ヘリコプターから
原子炉火災に向かって 何トンもの砂が投下されていた。
作業していた間、涙がとまらず、咳がでた。二重のガーゼ
マスクをしていた。日本では 福島で今、防護マスクを
3時間おきに代えているというが、当時は そうで
なかった。
昼食に食堂へ行くと いつも誰かが失神した。
組立て工の一人は 素手で作業して 足が動かなく
なった。2000年に その人は日本に治療に送られ、
治癒した(ようにみえた)。しかし やがて 骨と
筋肉組織が汚染されていたため 足が萎えた。
Belowの知人は 1986年に 3ヶ月間 事故現場で
運転手として働き、6ヶ月後に 白血病で死んだ。
予備役と軍の下層部隊が 原発事故との闘いで主役だった。
それが 重大な間違いだったと Belowは確信している。
専門家のグループが 現場に派遣されないで 3~4万人
の兵士が 動員された。人海戦術で立ち向かおうと
した。5年間に 合計38万人の兵士が チェルノ
ブイリに入った。

Belowはモスクワに戻って 3日後に 白血病の初期だ
と診断された。医者を次々に替えて 半年後に 正常値に
戻った。もし1年 待っていたら 化学療法は効か
なかっただろう。彼は いま第2種障害者だが、72歳で 
元気でいる。

この記事の冒頭で述べた Schaschkowaも 幸運だった。
プロだったから どうすべきか 分かっていた。原子炉
の屋根に 3分間 いたら 死んでしまう。15人の彼の
グループで 今 生きているのは 彼だけだ。

チェルノブイリの最悪の汚染は セシウム137、
ヨウ素131によるものだった。ヨウ素131は 被災地の
子どもに 甲状腺癌を引き起こした。
心身症を起こした 被害者も多い。すなわち 働け
なくなって うつ状態になり、アルコール依存症に
なる人が多かった。

すべてのチェルノブイリ犠牲者は 国を相手に
法廷闘争をしている。Belowは 原発で2週間 働いた
ことへの代償に 今、月に約160ユーロを受け取って
いるが 薬代だけで その倍くらい かかっている。

1991年に この事故の犠牲者への賠償の法律ができたが 
国は その後、対策を削減している。
Schaschkowは言う:チェルノブイリの最大の間違いは 
真実が歪曲されたことだった。そして 今、日本から 
明確な情報が きていないのも 問題だ。
下記サイトから:
http://www.welt.de/vermischtes/weltgeschehen/article13042767/Die-Liquidatoren-Kanonenfutter-fuer-Tschernobyl.html

   


Posted by jtw at 19:38Comments(0)

2011年04月01日

ベルリンの白熊クヌートは脳の欠陥で死んだ

クヌートはテンカン発作によって 岩から堀に落ちて
溺死したのでは なく、Hirnwasserkammer(脳水室??)
の拡張によって死んだということが 解剖の結果、分かった。
専門家の見解によると 享年わずか4歳だった クヌート
には 脳の重い障害のため 長生きできる見込みはなかった。
ストレスによる死でもなく、遺伝子の欠陥による死でも
なかった。
脳の中の圧力が 劇的に変化したため、クヌートは 
岩の上でなくしっかりした地面の上に居て、堀の水に
落ちなかったとしても 死んでいただろう。
下記サイトから:
http://www.stern.de/panorama/ergebnis-der-obduktion-eisbaer-knut-starb-an-einem-hirn-defekt-1669426.html  


Posted by jtw at 08:40Comments(0)