2008年10月06日

ベトナム人プオンの夢inドイツ

プオンは1981年に東ドイツに来て、大きい厨房で
働くことになった。88年に子どもを産んだ。出産は
非合法だった。
92年にロストックで荒れた右派の暴徒は怖かった。
2005年に大学を出た。

45歳の誕生日に彼女はドイツ人の男の友達と ロストックの
立派なレストランで朝食を食べることにして、一番良い服を
着てロビーに立っていたら、他の客の軽蔑するような
視線を感じた。27年ドイツに住み、大学をでて、ケースワーカー
として働いている。税金も払っているのに いつまでも
異物・ベトナム人なのは 辛い。

今 約24000人のベトナム人が旧東独にいる。
1981年に ベトナムで医学部へ進学するのを止め、
東独に来た。最初の職場は港の労働者のための
大きい厨房だった。5人のベトナム人と一緒にアパートに
住んだ。シフト制の職場で、月給340マルク。2年に一度 
大きい箱を古里へ送ることが許されていた。砂糖、
石鹸、編み機、自転車などを送った。

東ドイツは1980年からベトナム人労働者を受け入れていた。
賃金の12%は ベトナム政府へ支払われた。
「技術協力会」(GTZ)の2007年の調査では 「外国人
労働者は会社の寮に住み、監視されている。管理は
生活の全領域に及び、そのために孤立感は深くなる」。

彼女は労働契約を2年延長したあとで、ドイツ人男性を
好きになり、結婚して 子どもを産みたいと思った。しかし 
結婚証明書に 両親の同意が要ると ベトナム大使館は
言った。両親が同意するとも思えず、ドイツに留まる
ために妊娠する他なかった。
ベトナム政府と東独との契約では ベトナム留学生は
東独滞在中に子どもを産むことは 許されていなかった。
妊娠6ヶ月になり、中絶できないようになって 
初めて妊娠を打ち明けた。
1989年9月に結婚した後 プオン夫婦はベトナム大使館に
8060東独マルクを支払わねばならなかった。プオンが
契約違反したことと、ベトナムへ帰らなかったことへの
罰金だった。大金だった。夫はステレオと単車を売り、
彼女も稼いだ。
その1ヶ月後に ベルリンの壁は壊された。これで 
良くなると確信した。
東西ドイツ合併の後、元東独にいた6万人のベトナム人
の半数以上は ベトナムへ帰る旅費の補償金として
3000マルクを受け取った。
合併の頃は ベトナム人の野菜売り、古着売り、密輸の
煙草売りが多かった。
1992年にプオン夫婦は ロストックの近くに居酒屋を開いた。
昼間は幼稚園の炊事場で働いた。

90年代の中ごろ ロストックで 外国人排斥の動きが
激しくなり、彼女は 自分と ドイツにいる他のベトナム人
のために闘うことにした。ベトナム人と他の国からの
移民を組織する協会をロストックに作った。
教育、ドイツ語教室、社会生活のための助言、
東部ドイツに増えている外国人への憎しみとの
政治的対決などを 協会は提供している。

プオンは離婚し、2000年に幼稚園や少年福祉センター
などの業務を研究する学問を 大学で専攻し始めた。
2005年に卒業した。娘は一人で育てた。娘は大学
入学資格試験に合格した。
若い頃の夢は実現したと思う。
下記サイトから:
http://www.stern.de/politik/panorama/:Vietnamesen-Deutschland-Phuongs-Traum-/637993.html  


Posted by jtw at 13:59Comments(0)