2011年09月04日

中務哲郎 「人にはどれほどの土地がいるか」

月刊 図書 2011年9月号 p44~47
から抜粋。
原文は 買って読んでください。100円。

忘れがたい映画がある。セルゲイ・フジャーノフ監督の
『ざくろの色』(1971)は十八世紀アルメニアの詩人
サヤト・ノヴァの伝記ではないが、その生涯を枠組みに
借りて、永遠に生きる詩人の魂を魔法的な色と
イメージで描いた傑作である。

彩色写本の頁を繰る少年に書物への愛が芽生える。
字幕にサヤト・ノヴァの詩が流れる。

三つの神聖な目標がある。
ペンと文字と書物を愛することだ。
書物は大切に取り扱い大事に読め。
魂であり生命だからな。
書物がなかったら、
この世は無知の闇だったろう。
民衆の魂のために書物を読め。
読み書きは万人にはできない。

ところが、ペンと文字と書物で成り立つ
文学部が咋今はなはだ不人気である。
とりわけ外国語の修練を必要とする分野がそう
であるが、これには長い歴史がありそうである。
明治の日本は西欧の社会制度や科学技術を
学ぶために英独仏語を高等教育の柱に裾えた
が、経済や技術のある分野で西欧を超えたと
言われ始めた頃から、日本はまるでもう学ぶ
ものはなくなったと言わんばかりに、外国語
教育を軽視するようになった。
そして文部科学省と大学は、自国を知り異文化を
知るためには何が必要かという観点からではなく、
教育における実利と、学生からの需要の観点から
必修外国語を減らして来たから、外国語学習と
セットになった外国文学研究も衰微するのである。
そして、学生の来ない分野は必要がないということ
になる。大学から教育の思想が抜け落ち、需要と
供給の経済法則のみが突っ走るとどうなるか。

 明治の日本を唾棄して止まなかった荷風が
こんなことを言っている。
 「われ等の意味する愛国主義は、郷土の美を
永遠に保護し、国語の純化洗練に勉むる事を以て
第一の義務なりと考ふるのである」(『日和下駄』)。

 これこそ文学部に課せられた義務、文学部にしか
負えない使命であろうと思うが、これを実践している
ところがあるのだろうか。確かに、負のグローパリ
ゼーションの覆うこの世界では、英語さえ知ればコミュ
ニケーショが叶うから、ややこしい言語に難儀する
必要はない。ペンと紙のいらない携帯で情報交換
する段には、国文学科で日本の古典を修める必要も
ない。しかしこれは、言わば地面の上に二本の足で
立っているだけの状態であり、立ってはいるが危うく
貧しい。文学部の担う人文学は、この両足の周りに
広がる広大な大地のようなものではなかろうか。
     (なかつかさてつお・西洋古典学)

★ ブログ管理人は ドイツ学・ドイツ語学を専攻した
こともなく ただ 二十数年まえに ドイツ語が必要に
なったので 習っただけです。
ドイツで日本学を勉強してきたドイツの留学生や
日本でドイツ語を専攻した日本人の方々の お世話に
なってきました。
辞書を作ってくださった先生方にも 感謝します。
タグ :外国語学習

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