2007年04月19日

関口存男(つぎお)先生

日経新聞4月19日夕刊1面の広告 林望さんの 「オー人事録」という 
続き物の第61話に 関口存男について 書かれています。
その記事から 要約です:

大正期の 新劇団 踏路社に 役者 脚本家 翻訳家 等々を兼ねた
関口存男という人が あった。
関口は 明治27年 陸軍主計将校を 父として 生まれ 自身また
陸軍幼年学校  士官学校に進み 大正4年に 卒業、しかし まもなく 
胸を病んで  軍務を 離れ 演劇人・学者として 再出発した。
大阪の 幼年学校に 入学後 その14歳の時に 関口は ドイツ語を
やろうと決意、いきなり 独訳の「罪と罰」を 買い込み 辞書を 
引き引き 人に教わるのでなく 自ら考えに考えて 読み進めるという 
努力を 毎日 続けた。
関心を 持った事について 余人の及び難い 勉強努力をする人で
あった。
大正5年 22歳で 陸軍を休職して 上智大学に入学した。
後に 法政大学教授となって 世に 関口文法と呼ばれる独自の 
文法理論を構築、ドイツにまで その碩学は 鳴り響いた。
さらには 夥しい独仏文学の翻訳を公にしたが、そのスタイルはまた
独特で 客体的に 言葉を 置き換えるのでなく 作者や作中人物の
心に なり切って 主体的に日本語で 語り直すという体の ものであったから
その行文は まことに 活き活きとして 翻訳であることを 感じさせない。
昭和33年 脳溢血のため逝去。

★この大先生の 子息 関口一郎先生も 上智大学を出て 慶応大学
湘南キャンパスで ドイツ語を教えた。NHKテレビのドイツ語講座の 
講師も 長く努め 今日の 外国語講座のスタイルを確立した。 
東京で 1990年に 開かれた ドイツ語学文学国際学会のためにも
尽力された。数年まえ 若くして 亡くなられた。
一郎先生の 著書に 集英社新書 「学ぶから使う外国語へ 慶応義塾
湘南キャンパスの実践」など 多数。
大先生は読む一方だった ですが 御子息は 「使う」時代の ドイツ語教育に
献身されました。



Posted by jtw at 18:55│Comments(0)
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