2010年05月08日

シベリアの収容所に送られたドイツ兵(45年5月にドイツ降伏)

(日本もドイツと同時に降伏していれば よかったのに
3ヶ月の遅れは なぜだったんでしょう?)

1945年5月にドイツは降伏し、その時にHans-Joachim
Muschiolの苦難が始まった。1925年生まれの彼は捕虜
になり 1950年までソビエトの収容所に入れられた。
降伏した時、彼はバルト海沿いの岬にいた。ソ連兵は
ドイツ軍の陣地で武器を検査し、空腹のため食料を
取り上げた。
ドイツ兵はバルト海の海水浴場Kahlbergに輸送され、
さらに東プロイセンのTolkemitへ送られた。
そこからBraunsbergに歩いていった。Braunsbergから
貨車でモスクワの方向へ送られた。どこへ行くか、
監視役は言わなかった。果ての無い旅のように思われた。
ハンスーヨアヒムは いつか救出されると信じていた。
モスクワまで150キロのところで貨車は止まり、
ドイツ兵は 幾つかの戦犯収容所に分けられた。
厳しい労働、些細な違反に対する処罰への恐怖、
耐えない空腹感が 収容所で 待っていた。ドイツ兵
がソ連でしたことに対する報復だった。監視役の中には 
戦犯を責めさいなむ人もいて、多くの戦犯は生き
延びられなかった。
1948年12月10日に彼は15年の強制労働という
判決をうけた。同じ日にニューヨークの国連では 
12月10日を「人権の日」と定めた。
国連と無縁の彼は 他の約1200人の仲間と共に
1950年4月まで シベリアの収容所にいた。1950年
4月にスターリンは恩赦を発表し、彼は釈放された。
当時の東ドイツに送られ、1950年4月27日に 
オーデル河畔のフランクフルトに着いた。
彼は 戦犯とされたナチ親衛隊の兵士と親族 
1100万人以上のうちの一人だった。
120万人以上は収容所で死んだ。戦犯の最後の帰還は 
1955年だった。
下記サイトから:
http://www.dw-world.de/dw/article/0,,5523567,00.html




Posted by jtw at 20:24│Comments(0)
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