2008年10月22日

葬式は誰のため?inガザ

昨日 パレスティナ人の教師 Imanさん(25歳)は イスラエル軍の
攻撃で殺された。彼女の母親は重傷を負い、弟も負傷した。
亡くなった日の翌日に 父親の家へ行くのは 失礼にあたる
と思って 後で 墓地へ行く予定にしていたけれど、
通訳の人が どうしても 家族のところへ行った方が
いいと言うので 家へ行くことにした。
そして今 分かったことは、彼女の遺族の家にいた
2時間の間に ガザ地区での生きる事と死ぬ事について 
それまで よりも 多くのことを 知ることができたのだった。

父親は 不正について私達を納得させようとも しないし、
この死について責任を負うべき人を非難することもしないし、
娘の死について 宗教的な説明をするわけでもなかった。
一家はファター派ともハマス派とも かかわりは無かった。
イマンは信仰のために死んだのではなく、家族や学校の
ために死んだのでもなく、何かのために死んだのでない。
ただ攻撃をうけた民間人の犠牲者にすぎない。

モスクの中にイマンの遺骸が安置されている間、
外ではファター派の行進が続いていた。墓地まで 遺骸に
ついていくのだ。民兵は彼女の死を 殉教と言うが 
そうではない。
イマンの遺骸は墓の中におろされた。頭をメッカの
方角に向けて。
埋葬の時 父親の姿は 見えなかった。
英雄的な死を讃える儀式と 亡くした子のための
悲しみとの間の 隔絶が広がるばかりだった。
もし通訳者が 家族に会おうと言い張って 家族の
ところへ 連れてきてくれて いなかったら、私達は
ハマス派の政治的な示威行為しか 見えなかった。
父親や姉妹が 悲しんでいるのに、慰めをうけずに
いることを 忘れてはいけなかった。
イマンの死は 他の多くの人の死と 同じであり、
死は祝うものでなく、悼むものなのだ。
下記サイトから:
http://www.zeit.de/2008/42/Gaza



Posted by jtw at 14:28│Comments(0)
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