2008年06月09日

ミャンマーのサイクロン被災者の日記(下)

5月3日(土)
太陽が昇り 水は引いた。木から降りたが、歩けなかった。
体中が痛かった。幸い 水牛を見つけ、村まで水牛に乗って
行った。家があった場所には 何もなかった。そこから
教会へ向かった。それまで 自分が裸だとは気がつかなかった。
教会の近くに 多くの人が居て、誰かがTシャツをくれた。
村に2人の牧師がいたが 亡くなっていた。
千人の村人のうち 生き残ったのは300人。

5月4日(日)
隣村へ行った。1割しか生き残っていなかった。
数えられない程の遺体が 川を流れ、道に残されていた。
米とうどんを 混ぜたものを もらったが、水はなかった。
ココナツミルクが頼りだった。喉が渇いた。

5月5日
渡し舟で Latputtaへ行った。知人の家で 受け入れ
てもらった。食べ物はなかったので、ご飯をもらうために、
通りの人込みに入った。米販売業者が 食べ物を寄付
していた。2日間 そこにいた。

5月6日Myaung Myaへ トラックに乗って行った。
そこで やっと被災者キャンプに行き着いた。
Latputtaよりも ずいぶん良く、4日ぶりに ご飯とカレー
という まともな食事ができた。
ここの被災者キャンプに 最も被害の大きかった地域
から3万人が 集まって来ていた。

熱病・下痢・気道の病気にかかる子どもが多い。
5歳以下の子どもは 抵抗力が弱いので 特に
危険な状況だ。

Nyoは村へ戻りたくない。死んだ人の居るところだから。
Pathien か ヤンゴンのような大都会で職をみつけられ
たら いいと思うが まったく 見通しはたたない。

下記サイトから:
http://www.stern.de/politik/panorama/:Myanmar-Tagebuch-H%F6lle/620044.html

★別のアメリカのメディアの現地報告によると、被災地へ行くのに 
兵士に賄賂を渡し、通してもらったと 書かれています。







Posted by jtw at 16:15│Comments(0)
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