2009年06月16日

児童養護施設in戦後まもないドイツ

Peter Laxyは1953~56年の間 Krefeld(クレーフェルト)の
近くの児童施設に居た。その15歳から18歳までの間の
屈辱・暴力・餓えについて50年も経って 初めて語った。

施設から逃げ出して そのたびに捕まった。2日間施設に
居なかったら 4日間 コンクリートのベッドのある格子付き
独房に入れられる。

第2次大戦後、70年代の中ごろまでの間に 約80万人
の子ども(一時的に収容された子を含む)が施設にいた。
2009年2月から政治が このテーマに取り組んでいる。
ベルリンで2ヶ月に一度 当時の施設の子ども、国・州・
施設の経営者だったキリスト教会・青少年局の代表者が 
円卓を囲んで 集まっている。そこでは 謝罪が問題に
なり、被害者への賠償は可能かどうかが 論じられている。
既に 当時の施設の子どもたちの協会(VEH)は
250億ユーロの賠償基金を設立することを要求している。

施設では 罰を受けない日には 給食があった。朝は
代用コーヒー(薄いコーヒー?)とパン2枚、昼食はジャガイモ
と野菜(腐っていて 食べられないことが しばしばだった)、
夕食はパン。
運の悪い日には 夕食はパンの耳だけ。
なので Peterは14歳の時に体重38キロだった。

夜Peterの寝ているところに指導員が来て 部屋の隅に
引っ張っていき、革の上履きにタオルを巻きつけ、タオルを水
につけて その上履きで腕が疲れるまで 彼を殴った。
Peterは頑健だったから 生き延びた。
一人の指導員は虐待だけでなく、男色も好んだが、
Peterは 何とか防衛し、性的虐待は逃れた。

施設に入った日は 手錠がかけられていた。母親が彼を
好きでなかったので、彼をおばの ところへ遣った。
母親は警察に 彼を行方不明の泥棒として届けた。
切符を買う金を家から 持ち出したのが 泥棒と
言われることになった。警察は彼を施設に送った。

入所後 3週間して、労働が始まった。朝5時に起き、
トラクターに乗り、農場経営者のところへ行く。Peterは
凍えるほど寒かった。服は古いフランス軍の服から
作られていた。薄いシャツに、向こうが透けて見える
上着だった。シャツの中や ゴム長靴の中に新聞紙を
入れたが 寒さは防げなかった。
1日に12時間働くことも しばしばだった。日曜も働き、
どんな天候でも働いた。
ラインラントの土地金融組合連合は 彼に 手紙を書いて
きて、労働の報酬は小遣い程度を支払ってと言っている
が、彼は煙草4本をもらっただけだ。
5月に上記の連合は 当時のすべての施設の子どもに 
公式に謝罪し、歴史の洗い直しをすると認めた。被害者に
対して トラウマの治療を申し出た。

Peterは今71歳になり、妻とケルンの近くで 幸せに
暮らしている。
しかし夜 眠れない。施設の思い出は 彼にしがみ
ついて、彼を放さない。今も。
下記サイトから:
http://www.zeit.de/online/2009/25/heimkinder-laxy?page=1

★ダブル ポスティングです
  


Posted by jtw at 20:08Comments(0)