2008年01月11日

和歌山市大川地区・昔栄えた港/法然ゆかりの素朴な地

ぶらり紀の国 読売新聞 2007年12月23日

和歌山市大川地区

法然ゆかりの素朴な地

和歌山市・加大方面から大川峠の下を通る長いトンネルを
抜けると、海の向こうに阪神間の高層ビル群がうっすらと
見えた。
大阪との府県境まであと数百メートル、大川地区は、県内では
珍しく大阪湾が見渡せる。江戸時代から残る本瓦ぶきの家
や塀の間を、路地が縫うように走る。かつては商港と
して栄えたが、現在は17世帯、約40人が暮らすのみだ。

 地元で旅館を経営する北野一榮(かずしげ)さん(56)
の案内で坂を登り、法然上人ゆかりの「報恩講寺」を訪ね
た。本瓦屋根の仁王門は1764年建立で総ヒノキ造りの2階建
て。唐風の建築様式が見られ、軒先には龍や波の彫刻が施さ
れている。本堂は2001年に建て替えた。正面に第10代
紀州藩主・徳川冶宝(はるとみ)筆の額が掲げられている。
「徳川家とご縁が深かったようで、位牌もたくさんあります」
と、中西教恵住職。「大川峠より北のこの地域が、和歌山側
になったのは、この寺が藩主、徳川家の祈願所たったなごり
と伝えられています」と話してくれた。

 四国の流罪が許され、京に戻る法然が1208年、嵐に遭い、
大川近くの浜に漂着。村人の厚いもてなしに喜んだ法然は、
帰らずとどまってほしいと願う村人のために、桜の木で
自分そっくりの像を彫った。村人はこの像を安置する
ため、報恩講寺を建てた、と伝えられる。

 この像には、少し違った言い伝えも残っている。石野好恵さん
(87)が教えてくれた。法然が彫った像は、本人そっくりな
だけでなく、人と同じように動いた。法然は引き留める村人の
前でどちらが本物か見分けてみよ。本物を切りつければ
血が流れるはずだ」と言った。村人一大決心をして片方に切り
つけると、座り込み、動かなくなった。「村人が本物を見破れず、
像に切りつけたので、怒って帰ってしまったんやと」。

 千石船が立ち寄り、商港として栄えた江戸時代、石野さんの祖先
も、参勤交代の紀州藩の荷物を運んだ。「廻船問屋が千両箱を積み
上げ、高さを競ったそうやよ」と言う。石野家には、紀州藩お抱え
の絵師が書いたふすま絵や、嵐で荷物が流出した時の始末書も残っ
ているという。集落を流れる川にかかる「嘉永橋」は、1854年、
石野さんの先祖が架けた。橋げたまですべてが重厚な石造りで、今
も現役だ。

 石野さんの長女森和子さん(67)は、和歌山市の中心部から
4年前に大川に帰ってきた。「田舎の暮らしや家の管理は大変
だけれど、やっぱりここが一番落ち着く」。

 写真を撮っていると誰もが「よう来てくれはった」と気さくに声
をかけてくれる。多くの人に親切にされ、暗くなるまで時間を忘れ
ていた。法然が後ろ髪を引かれる思いで像を彫った気持ちが分かる
ような気がした。  (東礼奈)
      
 メモ 南海みさき公園駅から同町内循環バス(1時間に1
本)で約25分、小島住吉で下車し、徒歩12分。または、南海和歌
山市駅から和歌山バス(1日2本)で約40分、深山で下車し、
徒歩約30分。報恩講寺で朱印の押印を希望する人は要予約
(Oワ3・459・0185)。港は釣り客らでにぎわい、旅館「大川別館」
でけ新鮮な魚貝類が味わえる。


橋げたまで石組みで頑丈に造られて
在も市民の生活に寄り添う嘉永橋。
現在も市民も生活に寄り添う橋として親しまれている。

★写真の取り込み方が 分からないので また あとで。
  


Posted by jtw at 15:10Comments(0)