2006年11月30日

男の小学生の特性inドイツ

ハンブルク統合学校の 教師で 大学講師の フランク ボイスターは 小学校の男の子は 女の子と 比べて 授業に 適応しにくいと 論じている。
学習には 柔軟性が 必要とされるが これは 女性の得意な 分野である。
小学生のうち 男の子の12%は 終了できない。
教師は 男の子を 女子よりも もっと ほめて やらないと いけない。
男子は 女子よりも 言語能力が 低いのに 小学校では 文章中心の 学習である というのも 不公平だ。
男子は 本を 読むよりも 実地に 試してみたい 行動したいのだから 教師は ムリに 本を 読ませようと しない方が いい。
男子には 文章に ついて 女子より 多くの 指導が 必要なので 男女 別に 言語能力を 指導 するのも 意義が ある。
http://www.sueddeutsche.de/,jkm3/jobkarriere/berufstudium/special/571/43528/index.html/jobkarriere/berufstudium/artikel/97/93004/article.html
  


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2006年11月29日

ローマ法王トルコ訪問

ドイツ生まれの ベネディクト16世は 28日から12月1日まで イスラム圏の トルコを訪問。
法王は 9月の ドイツでの イスラム批判に対して イスラム諸国の 抗議を うけた。
ローマ出発を前に 法王は 「対話と 兄弟愛と 和解の旅」 ついて 話した。

当地の マレーシア留学生は たいてい イスラム教徒です。マレーシアの 留学生は もめ事が 起きるほどの 熱心さで 宗教を 信じているわけで なさそうで、 皆さん 穏やかに 留学生活を 終えて 帰られます。
別の 国の 留学生の中には イスラム教の 規則を 厳格に 守る生活を ここでも 続けられている 方も おります。
写真は 男女一緒に写ってはアカン、通訳は同性の人に限る、幼稚園児とでも 歌・踊りは アカン、となると ご本人は 納得のうえ だから いいですが、周りの人は シンドイのでは ないかと 思います。
http://www.zdf.de/ZDFde/inhalt/15/0,1872,2289711_1110000_TB,00.html
  


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2006年11月28日

砂漠野宿旅inチュニジア

11月23日のカキコミの続き。
9年前の 先生が 絵はがきを くれた後に また メールをくれました。
チュニジアの 砂漠を テントも持たないで 野宿して 歩くか ラクダに乗って 1週間 過ごしたそうです。
ガイドを 入れて 10人くらいの 一行です。
Yahooドイツで 検索して みましたら こういうツアーが いろいろ 有りました。
日本でも こんなツアーが 売られているかも しれません。
ガイドは 2人以上 ついている みたいですが ホテル代 不要だし ご馳走でる わけでないから きっと 安いです。
  


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2006年11月27日

独語検定試験

11月23日にドイツ語検定試験が あったそうです。
下記の 独検定のサイトに 過去問は でていませんが 
初級者向け 学習サイト、中級向けサイト、 ドイツ・スイスの新聞 雑誌 TV ラジオの サイトが 紹介されています。
http://www.dokken.or.jp/

若い頃 そんな 検定試験など なかったし 中年で 勉強を再開した時は もう 試験を うける 気力も なかったしで 検定を受けたこと ないです。
  


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2006年11月26日

停戦協定発効・イスラエル/パレスティナ

ガザ地区の休戦が 協定された。日曜6時(日本時間午後1時)に発効すると 土曜の夜遅く発表された。
http://www.heute.de/ZDFheute/inhalt/23/0,3672,4081335,00.html

ドイツ語とは 関係ないです けれど 欧州では イスラエル/パレスティナは 大きい関心事の ようで よく 報道されて います。
イラク戦争には 自衛隊も でかけて くれて いるし イラク関係の 報道は 日本でも 多いですが 長い間 戦乱状態の パレツティナも 忘れないで ください。
  


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2006年11月26日

滅び行くコトバ・表現in和歌山弁

江戸時代の たくさんの習慣や 習俗 あるいは 独自の行事などが 失われて しまったと いうことは きのうのブログに 孫引きしました。
明治・大正時代の 和歌山のコトバ・表現の多くも 消えました。

生きていたら百数十歳の祖母は 自分の能力が 及ばなくて できない と 言うのと 他の要因で できないと 言うのを 別の 言い方で 表していた ような 気がしますが 思いだせません。

「うたてい」  「むさんこに」 も 聞かれなく なりました。ネットの 和歌山弁サイトに でていると 思います。

次の 慣用句も 聞かれません。
「狐を 馬に 乗せたような 話し」: アホらしい、信じにくい話し。詐欺師や ヤマコハリの 言うことなど。
「トンガで 味噌を掘るよな...」:トンガは 細い鍬。新潟あたりでは 唐鍬(とうくわ)とよぶ。それで 味噌を 掘る というのは 苦労しないで 簡単に できる 様子を 表す。

もう明治の人は ほとんど いなくなり ました。もっと 昔の 話しを 聞いておけば よかったと 後悔しています。
  


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2006年11月25日

アイヌ語の音声・古川古松軒/菅江真澄

当たり前ですが ドイツ語の音も 日本語の音と 違います。

古松軒は(1726-1807)は 蘭学を 学び後に 地理・歴史を 学んだ。幕府が 奥羽と蝦夷へ 派遣した 巡見使に 彼は 参加して アイヌの風習や その人となり に 感心している。

<アイヌ語の 音声は 日本語のそれと 異なっていて、日本人の発音で アイヌ語を 話しても まったく 通じなかった。アイヌたちが 集まって何か しゃべって いるのを 聞いても ただ やかましいだけ だと 笑って アイヌは どうの こうの 話していたら 彼らも こちらの 話し方が おかしくて たまらないと 笑い転げている。ところが その笑い方の 音声 そのものも 互いに 異なっていることが また おかしくて また 大笑いしてしまった。>

古松軒や 菅江真澄(1754-1829)は 日本の各地で 見られる 言葉遣いの 違いを 通して 地方 それぞれの 文化の 相違に 注意を 払ってきた。

真澄は また 中央の文化や 言語を 全国的に 押しつける べきでないと 考えていた。
真澄は 三河の国に 生まれ 晩年 秋田に 定住した。国学者であり 本草学(薬草の学問?)・医学を 学び 博物学者であり 歌人。
東北や蝦夷へも 風物・地理などを 調べることを 目的に 旅に出て 日本の 民俗学の曙を もたらした。

真澄の 経験した日本は 文化的多様性に 富んだところで あった。そして 地方の 異なった文化や社会を 尊敬と 愛情の念を 持って なるべく あるがままに 記録した。
真澄の時代から およそ200年、 たくさんの習慣や 習俗 あるいは 独自の行事などが 失われて しまった。
以上 ”江戸の旅日記-「徳川啓蒙期」の博物学者たち」” ヘルベルト プルチョウ著、集英社新書、2005年。から 孫引き。
  


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2006年11月24日

滞在権・外国人の

ドイツ 内務大臣は 外国人の 滞在権について 歩み寄りを示した。職のある人は 滞在できて、失業している人には 過渡期間が 適用される という ことだが、詳細は はっきり しない。
下記のサイトで 写真だけでも みてください。
http://www.heute.de/ZDFheute/inhalt/26/0,3672,4076314,00.html

最初の写真は 旧ユーゴスラビアから 戦争の前に 逃げてきた 女性と 家族で、積み上げた スーツケースの前に 座っている のは いつ 強制送還 されるか 分からないから 荷物は 常に まとめている のだそうです。
もう1枚の写真は スリランカからの 18歳の女性で この人は 働いています。

あと1家族は 18年前 トルコから 親族の迫害を 逃れてきた女性と その家族。こういう 「待機外国人」は 外国へ 出られないと ことに なっている ので こどもは 学校の旅行 (外国と言うても バスで 行ける)に参加できない。
  


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2006年11月23日

テュニジアからの手紙

9年まえの先生 Brittaさんが チュニジアの砂漠で ラクダに乗って 野宿する というツアーに 行ったと 絵はがきを くれました。
チュニジアの切手には アラビア語と フランス語が 書いてあって ネットの辞書で フランス語を ひいて みたら この切手の 説明だと 思うのですが 
bague は 英語で sleeve、 or は gold。
金色の皿の ような物が sleeve??
  


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2006年11月22日

ドイツ語発音・聞き取りのサイト

「ドイツ語発音・聴き取りクリニック」
http://www.econ.keio.ac.jp/staff/sakai/hu/
境一三教授の 上記サイトは 初心者のために 作られた もので 超初心者の ためのABCから 始まり 「発音と綴りの関係」 から 「聴き取りレッスン」 まで。
ドイツ語のリズムや メロディーに 慣れたい人は どうぞ。
ウムラウトの音は とくに しんどい です。
  


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2006年11月21日

落語+独語・志ん朝さん

志ん朝師匠 お亡くなりになり 早や 5年が 過ぎました。享年 63歳でした。
獨協高校で ドイツ語を学び 、弟子を連れて 毎年 大好きだった ドイツへ 旅行に行っていた。亡くなるまでド イツ語の辞書を 大事に 所持していたという 逸話がある。

師匠は ドイツ語学者 学習院大 早川東三教授と ドイツ語について 対談し それが 三省堂のサイトに 残っています。対談の お題は「独語と落語とコンサイス」。
http://www.sanseido-publ.co.jp/booklet/booklet_dj.html
コンサイスと言うても 若い人には 通じないです。ここでは 新コンサイス 独和/和独辞典のことです。
新コンサイス独和辞典は 編集に13年 かかったと 編集者 早川先生は この対談で言うています。 師匠は 昭和の13年生まれ。この辞書を ひくと 思い出します。

師匠の追悼文は 下記を:
http://www.nikkansports.com/jinji/2001/seikyo011002.html
  


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2006年11月20日

ドイツ村in韓国

ソウルから500km離れた南部の慶尚南道の 南海郡、真っ青な海が 一望できる高台に欧州風の一軒家が あちこちにある。通称「ドイツ村」。郡庁が 始めた過疎地対策の 一つ。
1960-1970年代に 炭鉱労働者・看護婦として ドイツに渡った 人たちが 老後を 故郷で 過ごそうと 入居している。
この村は 出稼ぎ先の ドイツから 韓国へ 仕送りして 発展途上の経済を 支えてくれた ことへの 韓国社会の 感謝の 気持ちの 表現でもあり、 
もう一つには 農業と漁業の 過疎の村を ドイツ村という 観光資源によって 振興したいという 意図で 考えられた。
この村の 悩みは:
1.住人は ドイツと 韓国を 行ったり 来たりして 過ごすので 1年の 半分は 空き家に なる。
2.住人の こどもは ドイツに 留まっている。
3.あと 10-15年も たつと 住人は 亡くなる。

以上 日経新聞11月19日の 記事と 下記サイトから:
http://www.koreaheute.de/bbs/zboard.php?id=focus&no=31

日高にも アメリカ村が ありました。30年前 カナダから そこへ 帰った方に お会いした ことが あります。あの村は 出稼ぎに行った方が 自力で 建てたので 過疎地 振興のために 役所が 作った 村では ないです。
  


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2006年11月19日

フリッツ カルシュ博士・シュタイナーの紹介

以下は東京医科歯科大 若松秀俊 教授から いただいたメールです。
フリッツ博士については 9月29日 10月9,20日のblogも ご覧下さい。

★10月25日に,カルシュ博士のことで 公開講座 「人間発見《日本教育の礎を形成
したドイツ人カルシュ 博士》を埼玉県県民活動センターの「彩の国いきがい大学」で130人を前に
講演してきました。思ったより、みなさんが熱心に聞いてくれました。
来週は上京する島根大学の副学長とカルシュ博士の件で懇談する予定になっています。

カルシュ博士の業績については、国内にシュタイナーを紹介した大きな功績が見られます。
一般には、戦後に日本に紹介されたことになっていますが、大正末期にすでに日本でカルシュが周
囲の人々に人智学を語っておりますし、結婚前に博士がシュタイナーの言葉を自筆の絵とともに恋
人のエンメラに贈っています。

《カルシュ博士によるシュタイナーの紹介》
カルシュ業績のもっとも大きな歴史的意義は今教育論議の中で一貫教育の重要な根拠となっている
R. シュタイナーの哲学を1925年当時に夫人とともに日本にはじめて伝えたことでしょうか。一般に
は第二次大戦後にK教授が日本に伝えたといわれているのですが、歴史的はこれとは異なります。以
前に東京外国語大学のドイツ科の人からも小生に直接問い合わせがありました。
カルシュの長女メヒテルトは現在シュタイナーの人智学をドイツ語から英語に翻訳しアメリカで広
める仕事に打ち込んでいます。
次女フリーデルンは戦後ドイツで復活されたシュタイナー学校(自由ヴァルドルフ学校)を卒業
し、その後マールブルク大学で博士号を取得した後に、自由ヴァルドルフ学校の教員となり、身近
には日本人の母娘(たとえば現在獨協大学講師)などを直接育てています。
長女が学校に行かなかったのはカルシュ夫妻の手でシュタイナー理論に基づいた教育を施したかっ
たからでありましょうが、このころはすでにヒトラーによってこの種の教育はドイツでは禁じられ
ていました。日本でも同様の影響がありましたが、こうした考えが「窓際のトットちゃん」こと黒
柳徹子さんの出身校の校長に影響を与えたものと思われます。現在もフリーデルンはスイスのドル
ナッハのゲーテアヌムで研究を続けており、メヒテルトはアメリカでシュタイナー研究とその実践
を広めており、結果的に大きな影響を日独米三ヶ国の人々に及ぼしております。
小生は、調査によりこの事実を知っていましたが、それ以上に当時の若者との交流の中にカルシュ
の人間性をみて感動しておりました。ひとからよく「カルシュ博士の現在に及ぼす影響は何か」を
尋ねられますが、これがそのうちの一つです。さらなる彼の業績を明らかにできることを願って調
査を深めております。先日の拙著「四手網の記憶」の原稿は、カルシュのおいたち、人柄、80年前
の松江、生徒や地元との交流、残した写真、絵画、言葉、調度、「記録に残る今日の世相の予測」
を後世に残したいと思う小生の思いをこめて網羅的に述べたものです。小生この思いをお汲みいた
だければ幸いです。
  


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2006年11月18日

Kindergarten幼稚園

ネットで調べたら 幼稚園は1840年にドイツ人フレーベルによって 創始された。日本では1876年(明治9年)東京女子師範学校に付設されたのが 最初。
英語のkindergartenは ドイツ語から 来たそうです。その名残で 英語になっても gardenでは ないです。
11月は 幼稚園の園児募集の時期です。大阪では 評判のいい幼稚園は 先着順で 大騒ぎして申し込むそうです。和歌山では こどもも 少なくなり 幼稚園も 不景気です。

ドイツの幼稚園は 日本と違って 主に お遊びを する所だそうです。
そこで 教える人を Erzieherと いいます。Erzieherは 他にも YMCAなどでも 働ける資格を もった人だそうです。
独和辞典の 中には Erzieherを 「教育者」とだけ 書いているのも あります。実際と 辞書の説明が 違うことは あります。
その 元は 動詞 erziehen、 その幹 ziehenは 「引く」。これから でたのが 
der Zug「列車」。
der Zugvogel は「渡り鳥」、<引>率されて 飛んでくるから?? この単語は 鳥インフルエンザ関連の 報道に でてきます。
  


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2006年11月17日

オーストリア改めオーストリー

ドイツ語圏にあるO”sterreich国  大使館は 同国の日本語 表記を オーストリーに 
変更することを決めました。
今まで オーストリアと 表記していたため 南半球のオーストラリアと 混同され続けて 
いるので この決定に至りました。
墺太利 という書き方も あって、今でもオースタリー と言う人も いるそうです。
ついでながら O”sterreichは 「東方の国」というような 意味です。
一方 オーストラリアAustraliaの aust-は 「南」という意味だそうです。
同国大使館サイトから:
http://www.austriantrade.org/japan/our-office-in-tokyo/ja/
  


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2006年11月16日

手紙・メール

手紙・メールの最後に「敬具」とか「そうそう」とか 書きます。ミャンマーの留学生が ふるさとへ 帰ってから くれた手紙の 最後に
I wish you peace of mind.
と ありました。軍が支配する国とは言え 仏教国の人は ありがたいコトバを書いてくれると 感激しました。 ドイツ語で 手紙・メールを書く時に これを 使おうと思って 辞書をひいてみたら 
peace of mind に あたる ドイツ語に ふたつ あって
der Seelenfrieden: (魂の平穏) これは 時に 皮肉に響く ことがある。

die Ruhe/ innere Ruhe: (内面の・心の 安らぎ)

と いう説明が ありました。外国語を 習うものに とって 皮肉は わからないです。

Ich wu"nsche Ihnen eine innere Ruhe.
  


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2006年11月15日

標準語教育in旧・西成瀬村/秋田県

秋田のコトバでは「イ」と「エ」、「シ」と「ス」は はっきりせず、たとえば スシと ススは 区別できない。
現在の横手市内に 位置する 旧・西成瀬村で 遠藤熊吉 先生は 1900年明治33年)に 標準語 教育を 始めた。
教科書を 音読する のではなく 子供同士が 普段 感じている ことなどを 話し合う 対話練習を 取り入れることで 興味 が続くように 心がけた。
もう一つ 熊吉が 時代を 先取りしていた のは 決して 方言を 軽視しなかった ことだった。
子供たちが お昼に 「へんへい、 おゆっこ けれ」と 言っても 熊吉は 微笑ながら 「せんせい お湯を ください ですね」と言って お湯を 注いであげた。

以上 日経新聞 11月10日 文化欄 「標準語を操る不思議な村」 北条常久(秋田県 中央図書館 明徳館 館長)の記事から 引用。

★これを 読んで 生徒の意欲を引き出して くれた この会の先生方を 思い出しました。
  


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2006年11月14日

ノーベル平和賞ユヌス・衛星TVで17日に

10月27日のblogに 書いたユヌスさんを TVで 見られます。
「ノーベル平和賞ムハマド・ユヌスの挑戦」というオランダで制作されたドキュメンタリが11月17日金曜夜9.10-10時まで NHK BS1で 放映されます。NHKでの 題名は 「BS世界ドキュメンタリー 貧困撲滅への 長い道」
バングラデシュのグラミン銀行で、貧困層を対象に始められた無担保少額融資「マイクロ・クレジット」。1995年、グラミン銀行から融資を受ける家族を取材したクルーが、10年後に再びバングラデシュを訪れ、人々の生活がどう変わったかを追った。(NHKのHPから引用)
  


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2006年11月13日

疑いをもたず唯やる・外国語学習法

11月8日のblogの続き:英語教育学者 田崎清忠 先生の記事から 引用:

かしこい人は かしこくない人に比べて よくものごとを 考えます。常に自分の行動についても 反省をします。これが よく ありません。
田崎先生は 工業高校出身で 英語の 勉強法さえ よく知らなかった。そこで たまたま 手に入れた「...英文解釈」という むずかしいい本を やることにした。まったく チンプンカンプン なのに ねばること 1年半。その間に この本を 14回 読んだ。そしたら ふしぎなことに 英文の構成が のみこめる ようになった。無智で 素朴だった から できたのかも しれません。もう少し 消息通だったら もっと 教材探しに 時間を かけた かも しれないし 途中で 何度も 方向を 変えたとも 考えられます。
多少 教材が ヘンテコリンでも 最後まで やり通すことに よって そこから 何かが 生まれる というのは 多くの学習者が 自ら体験していることです。
  


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2006年11月11日

外国人労働者Gastarbeiter

11月9日のblogの続き:
1960年代中頃までドイツの外国人労働者Gastarbeiterの 大半は イタリアからで その後 トルコからの人が増えた。
労働者の募集と 仲介について ドイツと各国との 協定が 結ばれた: イタリアとは 1955年に、スペイン ギリシャとは 1960年に、トルコとは 1961年に、 ポルトガルとは 1964年に、 ユーゴスラビアとは1968年に。
1973年の経済危機の時に 非EU国からの 労働者 募集は 停止された。

数年前 当会へ 講師として 来てくれた Mariaさんは ギリシャからの Gastarbeiterの 二世でした。彼女は 臨空タウンの 公営 日本語学校の 学校兼 学生寮に 住んでいました。その学校には つねに ドイツ語圏からの 学生が いると 思うのですが 皆さん 奨学金を もらっているので アルバイトは 禁止されて いて 講師に きてもらいたいと その学校へ 頼みに行くわけに いきません。
  


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