2006年10月11日

ポストイットの活用

NHKでは糊付き付箋?
和歌山日本語学校の 留学生の部屋へ 行ったら テレビ 窓 冷蔵庫などと書いた ポストイットが 貼られていた。おたま しゃもじ等 貼れないのに ついては 置く場所や 引っかける所に そう書いて 貼ってあった。
これに ついて ”「学ぶ」から「使う」外国語へ”という 集英社新書 関口一郎著、に 記述が あって 抽象的な概念や 形容詞・副詞などは まず先に 覚えるべき単語の小カードを 作っておいて 家中 歩き回って それに ふさわしいものを 見つける。例えば おじいさんの 部屋の横に 「呆け」にあたるドイツ語を貼り付けても 誰も その意味が わからない だろうから もめる ことは ない。
外国語の勉強とは こんな もので いいのである。机に向かって がまの油のごとく うめいて みたって けっして 上手に なるものではない。何か それと関係する きっかけが あって 始めて 単語は 記憶に 定着する。定着したら ポストイットを はがせばよい。
はがした ポストイットは 捨てないで ノートか 何かに 貼り付けて 保存する ほうが よい。そのノートも ルーズリーフ式のもので 項目別に 分類してあれば とても 役に立つ。
以上 上記の本から 引用。
  


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2006年10月10日

カルシュ博士伝記「湖畔の夕映え」

昨日のbogは 若松秀俊 教授 著「湖畔の夕映えーカルシュ博士と松江ー」文芸社、2002年刊行 の中の 和歌山関係の記述を 抜粋したものです。この本は1200円で買えますが、若松教授の下記 サイトから ダウンロードも できます。自費出版 された本を ネットで 公開される とは 有り難い 御志です。
http://www.tmd.ac.jp/med/mtec/wakamatsu
このサイトには 他にも 膨大な量のカルシュ博士についての 情報が あります。
  


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2006年10月09日

フリッツ カルシュ博士/若松秀俊教授からコメント

9月29日のカキコミについて 若松秀俊教授から 10月4日に 次のコメントを いただきました。若松先生は カルシュ博士のことを 多くの日本人に 知らせるために 尽力されています。もったいない 忝ない お言葉ですので ここに貼り付けさせて いただきます:

「ドイツ語を楽しむ会」を拝見しました。若き日にドイツ語をそれこそ楽しく勉強しました。 カルシュに関する小説「湖畔の夕映え カルシュ博士と松江」の和歌山を舞台にした一節をお送りします。 カルシュは和歌山に赴任する可能性が会った人です。皆様のご健闘をお祈りしています。 テキストに変換したのでふりがなが大きくなってしまいました。

***和歌山へ遠距離旅行した。この駅のバニラアイスクリームは特別おいしい。かつて喜一が言っていた鯨の話を思い出していた。駅に着いたフリッツは早速、周りの何人かに「鯨はどこで見られるのですか?」聞く。「たいじ太地のことだな」「でも、そんなに見られるもんじゃないさ」「沖で、時には見られるがね」「時々やって来るが、やっぱりこちらから出かけないとな」 「お父さんはもしかしたら、ここの高等商業学校に赴任したかも知れなかったのだよ。メヒテルト」「ここも、すてきね」 紀伊徳川家の栄華を誇る和歌山城を仰ぎ見ながらエンメラが感嘆の声をあげる。 この城の屋根には千鳥破風が松江城と同じく取り入れられている。 「でも、わたしは松江がいいわ」メヒテルトは松江の静かなたたずまいを思った。「ここは、松江とは違うが、出雲によく似た土地がらだよ」フリッツも自分の人生観に根ざした評価をする。出雲の風土記を学びながら、得られた知識が脳裏に浮かんだ。 「でも、本当は何も知らない」と苦笑いしながら娘に語りかけた。 ここ紀伊の国では古代から信仰を集めた神社がある。神武天皇の御代に起源があると日本書紀が云っている。代々紀氏の家系が祭祀を務めている。うっそう鬱蒼とした木立の中にひのくま日前神宮、くにかかす国懸神宮が並んで鎮座する。ち ぎ千木のある屋根は出雲大社と同じだ。何となく、出雲の雰囲気だ。

    四 人力車で海岸をゆっくり走る。和歌山のはずれにくると波穏やかな、和歌の浦にでた。ふろう不老橋をわたる。中国の西湖の橋を模したつくりという。この地は、万葉の歌枕の地だ。万葉歌人がここで和歌を詠んでいる。現在は、万葉集にちなんだ万葉館があって昔の様子を語ってくれる。和歌の神様のたまつしま玉津島神社が近くにある。この地、片男波海岸からは、その昔、玉のように連なる島々が海中に浮かぶ美しい景色が見られたとのことである。古来、天皇も何度か行幸したことのある景勝地である。 聖武天皇に随行した山部赤人が長歌と二つの反歌を詠んでいる。その一つが わかの浦に潮みちくれば潟をなみあし べ葦辺をさしてたず鶴なきわたる である。当時の風景が目に浮かぶようだ。 ここから、さいかざき雑賀崎への道すがら海岸線の美しさに、フリッツは見とれた。

途中、ほう らい蓬莱と呼ばれる岩にメヒテルトと一緒にのぼった。「気をつけて、フリッツ」「メヒテルト、もっとゆっくり」「大丈夫よ。ムティ。ほう らい蓬莱には仙人が 居るんだから」「ここは、不老不死だからな」 この地から、ちょっと北寄りの徳川家の造営になるようすいえん養翠園に足を向けた。見事なつくりだ。緑の豊富な広い庭園のなかに歴代の藩主が愛した茶室がそのまま保存されている。借景の山々が融け合う。庭園の極致だ。海水を取り入れる珍しいつくりの汐入の池。そのふち縁の風にそよぐ松の木と水面に生じるさざ波が美しく映える。
日本は、いや日本人は何とすぐれた美的感覚をもっているのだろう。池の縁から突き出た黒松のかげ陰影の中で池の魚が飛び跳ねた。水晶の玉のしぶきが飛び散り日の光を弾き返した。 華やかさを極限まで付け加えようとするヨーロッパの美の構成と本質を異にする日本の美をフリッツは理解しているのだ。
華道も茶道も、書道も絵画も、舞踊も能もそして寺院の造りも何もかも、古来芸術と云われるものが、人工的な美の世界で、ひとつとしてむだがなく、自然の中で清楚な相互の配置の極致を実現しているのだ。 ひとつでも存在をはずすと調和の美のすべてが倒壊してしまう、むだのない美しさだ。抽象の美しさが、具象の美しさの中にかくも見事に実現されている。
鯛の一本釣りで知られる、石段と坂の漁村の雑賀崎に出た。青い波の中の黒く輝くうねりと白しぶきが眼に入る。独特の潮の香りの港は、波の様子が異なるが、島根の漁村とよく似た風情だ。 ここから骨の折れる路を登って見晴らしのよい場所にでた。エンメラもメヒテルトも黙って、岬の突端から海峡をみる。江戸末期の黒船の監視に使われた『ばんどこ番所の鼻』から見た、自然が配した小島の様子がとても美しい。ここは、海を借景とした庭園で、潮騒と松風の音が絶えず聞こえる。
夕刻になった。近くの鷹ノ巣の高台から海を眺める。小舟が通る。海に日が落ちるところだ。 夕日が紫青の混じる縞をなして静かに水面に映える。
この国はなんと美しい国なのか。 フリッツは、何年か前に訪れた隠岐西ノ島の夕映えを想い出した。確か、島外れの国賀海岸であった。荒波に浸食された奇岩断崖からなるこの上もない美しい海岸線は、時の流れを忘れさせる程の眺めであった。絶壁の上はのどかな草地の放牧地であった。夕方、そこにメヒテルトとともに立った。そこから縞模様の海に映える赤と金色の入り混じった夕焼けを見た。ドレスデンで見も知らない人から授かったボタンの放つあの光を思った。 眼前の光景は、あの宍道湖の夕日とは異なる神秘的な夕映えであった。感動に二人は胸を震わせた。
「なんという、高貴な美しさか」 この地は出雲の地方とよく似ている。そこに自分に与えられた運命をひしと感じた。
郊外にいわせせんづか岩橋千塚古墳群を見た。ここは大和地方や大陸との関わりのある土地柄で五~七世紀につくられたという。いまは紀伊風土記の丘と名付けられた史跡公園だ。ふと、フリッツは松江近郊のいざなみのみこと伊邪那美命を祀るかもす神魂神社と八雲立つ風土記の丘の古墳群のたたずまいを思い出した

以上 引用させていただきました。
  


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2006年10月08日

セラヴィパン屋

10月1日のblog シンドラー ヴェルナーさんin 中辺路 のソーセージは 写真の店 パン屋セラヴィ(砂山小学校 北)で 買えます。セラヴィの あるじは フランスの人。人物像も これくらい不鮮明だと プライバシーの問題も 起きない?
  


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2006年10月07日

成瀬清・辞書の序文

昨日のカキコミにある 成瀬無極先生は 1956年に 佐藤通次先生との 共編で 小独和辞典を 出版した。その序文の最後の段落に:
「言葉は 人間の ’いのち’の顕れであり、それ自体、生命の系譜の中に あるものであるから これを 単に手段とし 符号として のみ 取扱うべきではない。言葉に対する この見解からして、スペースの許すかぎり、各語に語源的な説明を加え、それぞれのドイツ語に語源的に 対応する英語を ’ ’で囲んで示す などの配慮をした。この小辞典が 実用の上で 使用者に 多大の 便益を もたらすと共に、言葉への愛と敬とを 涵養する一助と ならむことを念願して、編者のLieblingを ここに世に送る。」

この辞書の新訂版は 今も ネット古書店に でます。
元の版は シャツのポケットに 入るくらいの 小ささなので ゴミと共に 捨てられる らしく 古本屋に 出ません。
  


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2006年10月06日

成瀬無極

きのうのカキコミにあるクリストフ ケンプ博士は 戦前に 京都大学 留学中 ドイツ文学の 成瀬無極 先生に 息子のように かわいがられた。
成瀬清先生、号を無極。
多くの教授が 武運長久の話しを する中で ただ一人 「生きて帰って また 勉強するように」と 学徒出陣の学生に 別れを 告げた。
別の大学の 政治学者 板倉卓造 教授は 戦争中に 民主主義についての講義のあと 学生たちに 言った:
「この戦争は いよいよ ひどくなる。諸君も工場に動員されて学問は 続けられなくなる。...日本は負ける。当然 敗戦後の日本は ひどいことに なる。だが、諸君が しっかり していれば 必ず日本に自由主義の 時代が くる。しかし 残念なことに 私は 老人だ。その時まで 生きては おれまい。そこで 諸君に頼みが ある。諸君は 生き抜いて 自由主義の時代を つくり 私の墓に やってきて 石を拾って墓石をコツコツ叩き 先生、先生の 時代が来ましたよと 必ず 報告してくれ給え」  


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2006年10月05日

奥の細道クリストフ・ケンプ

クリストフ ケンプ博士は 60年代に京都ドイツ文化センターの所長を 定年で退き ドイツへ帰られた。ケンプさんは 1937年に交換学生として 京都に来た。戦争が迫り 1939年に帰国。第2次大戦になり 5年間を フランスや東欧の戦線に つづいて 6年をシベリアに 抑留された。1956年に天理大学に職をえて 再来日。以後 京大でも ドイツ語を教えた。
ほぼ6年にも及んだ シベリア抑留生活で 同じ立場の日本人の捕虜と交流があった。なかでも 特に親しくしていた ある人が日本へ 帰れることに なったとき 一冊の文庫本を ケンプさんに贈って帰った。 それは 岩波文庫 「奥の細道、その他-芭蕉翁紀行集」だった。捕虜生活が それで どれほど 慰められた ことか。暗記してしまうほど 繰り返し 繰り返し 読みながら 楽しかった 日本での 生活を 思い出していた。
一冊の本に 芭蕉の紀行文集を 選んで 戦地へ もっていった 兵士、極寒のシベリアで 重労働の合間に 秘かに このページを繰った若者。その宝もの とも いえる この本を 日本を 第二の故郷として 懐かしむドイツ人に 贈って 帰っていった人...
「図書」1997年9月号 上田真爾子(まにこ)さんの 記事から。
まにこ の 「に」は ホントは もう少し 簡単な漢字です。一をかいて その下に 向を書き 向の中の 口を 取り去り 代わりに 縦棒 2本引く。くるしい...
  


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2006年10月04日

ドーナツ沖縄風/サーターアンダーギー

ドイツ人講師(お二人とも男でした)がクッキーや玉葱Kuchenを作ってきてくれた ことがありました。お返しに作れるのは 沖縄風ドーナツだけです。そのレセピを 下に書きます。
これはドイツでベルリーナの呼ばれるのに 似ているそうです。
長持ちするので 終戦後 旧満州から 韓半島への 長い逃避行の間 これを食べて生き延びた人もいたそうです。1ヶ月もつ という話しですが 実験したことは ありません。

1.薄力粉280g 塩小さじ1 ベーキングパウダ 大さじ1.
2.卵2個 (手でほぐす、泡立てない)+砂糖120g+バニラエッセンス少し.
2に 1を 少しずついれて まぜる。
30分-1時間 おいとく。
大さじで すくって ピンポン玉くらいのを 油へ。(油は 低温で)
  


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2006年10月03日

DDR博物館ベルリン

2006年7月にドイツ民主共和国博物館がベルリンに開館した。(DDRの最初のDは ドイツ、2番目のDは民主、Rは 共和国)。今は ない東独の日常生活を示す物と 当時のコトバが 展示されている。
トラバントという車・酒・コーヒー、コトバでは 例えば ベルリンの壁は 「反ファシスト防御壁」、ジーンズは 「青色木綿ズボン」。
旧東独地域は 不景気な和歌山よりも ずっと不景気で 失業率25%にもなり 昔の方が 良かったという声も 多い。
同館には 次の会話も掲示されている:
DDRの国家評議会議長 ホーネッカーと マイセンの陶器工場長の会話-
当時は 製品は できるだけ多く輸出し 売れない物を 国内に流通させた。
工場長は ホーネッカーに 胸をはって 言った 「不良品は 生産量のわずか 5%です」。
ホーネッカーは 問うた 「それだけで 全国民に まわせるのか?」
Daily Yomiuri 10月2日から引用
  


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2006年10月02日

森鴎外記念館in Berlin

和歌山県立近代美術館の「森鴎外と美術」展は10月22日まで、月曜やすみ、10月9日は開館し 翌日休み。会期中 展示品の入れ替えあり。
森鴎外記念館は ブランデンブルク門に近い 旧東ベルリンの一角にある。鴎外が下宿した家を 改造したもの。鴎外のドイツ到着から 100年にあたる1984年に フンボルト大学の 付属機関として開館した。
日本では 津和野にも 鴎外記念館が ある。
ベルリンの記念館については 下記 サイトへ:
http://www.asahi-net.or.jp/~ci8k-wkmt/kinenkan.htm
  


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2006年10月01日

シンドラー ヴェルナーさんin 中辺路

シンドラー デリカテッセンの主 ドイツ人 ヴェルナーさんは和歌山県 中辺路で ハム ソーセージを 作っています。和歌山市 砂山小学校の前の パン屋さん(ここは フランス人の店)セラヴィでも 買えますが すぐ 売り切れるようです。
シンドラーさんの店のサイトは:
http://www2.w-shokokai.or.jp/nakahechi/jigyosyo/scindler/index.html
シンドラーさんは 以前 田辺でレストラン バイエルンを開いておられました。
  


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